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Doraneko&Donuts

おすすめの本と映画と音楽をお茶を飲みながらまったりと語るブログ

「生きる哲学」は実践的哲学の入門書 その生き方とは?

おすすめの本

生きる哲学 (文春新書)

 

こんちわ、わしです。

ドラねこが気になる書籍や、読んで面白かった本を紹介するドラねこ書店おすすめの本。

第102冊目の今日は「生きる哲学 (文春新書)」を紹介するよ(=´▽`=)ノ

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生きる哲学

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

 

本書は数々の試練に耐えて生きてきた人たちの言葉から、生きた「哲学」を考える本である。

出会うべき言葉は私たちの内にある

わかるということは変わるということだ。

ある出来事にふれ、真にわかったとき人は、どこかで変貌しているのである。これは素朴な理法だが、ときに厳しく迫ってくる。変わっていないのであれば、じつは分かってはいないことが露呈してしまう。哲学者の池田昌子(1960〜2007)は、分かることと、変わることにふれ、次のように書いている。

 

「この本に書いてあることを自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのなら、君の生き方考え方は、必ず変わる。変わるはずなんだ。本当に知る、「わかる」とは、つまり、そういうことなんだ。」

p11

この本を読んでいると、絶望の淵に立たされたとしても、なんとかしてそこから立ち上がるための実践的な方法が、様々な著者のコトバによって語られている。 

 

例えば第一章、須賀敦子の道にはこんなコトバがある。

自分の生きている場所は狭い。

しかし、そこはすべて自分の大切な人々のかけがえのない毎日とつながっている。それを想い出し、しっかりと感じるためにも、人は歩かなくてはならない。

どんなにゆっくりであっても自分の足で、大地を踏みしめて進まなくてはならない。歩くという日常的な行為が、日常を突き破り、心の奥深くに魂の故郷が芽生えていたことを告げ知らせる。

p30

「歩くことによって」イタリア・ミラノで出会った実践的なカトリック左派の思想をこう語っている。

こういう言葉を読むとまるで仏教のような感じがするが、彼女はミラノでキリスト教の教えを日常の中で実践的に行う人達と触れながら、「哲学」とは何も難しい書物を読むだけが哲学ではないということを「歩く」ことによってキリストの教えを思想しようとする。 

 

第二章、舟越保武は半身不随に倒れながらも彫刻という「かたち」を通して、「彫る」ことによって内面の光を探ろうと腐心する。

霊性と精神は違う、と鈴木大拙(1890カラ1966)は書いている。

ある時期、日本は「日本精神」なるものを声高に叫び、戦争へと突入していった。彼が言う「精神」とはときに時代や為政者と結びつく。しかし、霊性は違う。霊性は国家とは結びつかない。それはいつも個と「超個」との個的な関係である。したがって霊性はときに倫理の規範を超え、それを包含し、変容する。宗教的戒律の向こうにも、求め得る「道」があることを指し示す。

p52

 

喪(うしな)う悲しみすらも哲学する

第四章、喪う「論語」の悲しみでは、「礼」というものについてこんな風に語る。

悲しみは人をつなぐ。その働きを助けるのが「礼」である。

だが、あまりの悲しみは時に心身を脅かす。喩えではなく、深い悲しみはときに、人から生きる意味を覆い隠す、だが、「歌」はそれを整え、悲しみの奥にこそ、生きることの真義が潜んでいることを伝えてくれる。

「礼」とは、儒教の中核にある、不可視な言葉で綴られた一種の「歌」だと小林は言う。「礼」は悲しみの「歌」によって作られる。作られ続ける。

それゆえに「礼」に参じたとき人は、自己の悲しみを超えた感情の訪れをも感じるのである。

p79

深い悲しみは心身を脅かす。

これは著者の若松英輔氏自身も最愛の人を失くしたことをきっかけに本を書き綴ってきたように、人はその悲しみを歌にすることによって深い悲しみを昇華してきたのだという。 

歌は、悲しみを起源にする。悲しみで言葉にならない呻きは、歌の母になる。容易にかたちを帯びようとしない死者への思いが満ちるとき、歌が生まれた。人はそれを晩歌と呼び、晩夏から愛する人に言葉を送る相聞歌が生まれた。歌が無数にあるように、無数の悲しみがある。一つとして同じ悲しみはない。悲しみが心性の伝統を作る。「伝統とは民族的合意である。」(「孔子伝」)、と白川は書いている。

p85

そう、いくら悲しみを表現したところで、所詮はそれを他人が真に理解することはない。

なぜならそれほどに無数の悲しみが世の中には存在し、その中で人は生きることを「思想」するからだ。

 

第七章では詩人のリルケに触れつつ、

ある日、面識のない、詩を書く青年が、突然、手紙と共にリルケに作品を送りつけた。リルケは詩を読むだけでなく、丁寧な手紙を付して返送した。そこでリルケは青年にこう語った。

「あなたは外へ眼を向けていらっしゃる。だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい(中略)もしあなたが書くことを止められたら、死ななけれなならないかどうか、自分自身に告白して下さい」

(「若き詩人への手紙」高安国世訳)

p140

人はなぜ「詩」を綴るのか?という人が書くという行為の抜本的意義を説いている。

このリルケの「自らの内へ入る」という行為は詩だけでなく、ブログを綴る者にも共通することだろう。

身近な例を取ると、人が欲しがる情報を狙って書く記事よりも、自分が思うことを素直に綴った記事の方が、結果的に幅広い読者に読まれ人気ブログになる、ということだ。

 

「あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい」

という偉大な詩人の言葉は、わしらのようなブロガーは常に胸に抱いていおきたい言葉である。

 

実践する哲学

第八章では人の「生きがい」とは何か?ということをこう綴る。 

わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。

p158

この言葉の著者、神谷美恵子にとってその「生きがい」とは、精神科医の本分をたまに超えつつ、弱者に寄り添いながらその対象の悲しみに耳を傾けるという行為が彼女にとって大切な実践的な研究なのである。

 

これは自分の仕事をどこまでも「生きがい」として実践しながら哲学する例であろう。

仕事に「生きがい」を見つけて働けということを書くと、まるでブラック企業礼賛のように聞こえてしまうかもしれないが、本来自分の転職とはきっとこういうものを指すのだろう。

また、プラトンにとって哲学は、「神秘」へと続く道だった。

ここでの「神秘」は、世に言う教義と化した神秘主義の真逆に位置するものである。それは先に見た「叡智」の異名である。

「神秘」あるいは「叡智」は、単に知られること、あるいは語られることを拒む。「歩く」ことによって見出して行く不断の経験の持続をいう。だからこそ井筒はこの著作で、「哲学」の異名として、しばしば「神秘道」という見慣れない述語をあえて用いて、読者に衝撃を与えようとする。

p170

第九章ではブッダやプラトンが感じた内なる真理を著者の井筒俊彦氏は、「叡智」を歩くことによって実践していくことの尊さを指摘する。

 

そして、第十一章、「伝える」ではナチスの収容所で過酷な体験したヴィクトール・フランクルの言葉をこう紹介する。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。

つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです

私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。

生きること自体、問われていることにほかなりません。

私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

(「それでも人生にイエスという」山田邦男・松田美佳訳)

p212

長い人生を歩んでいると人は誰しも自分の生きる道を見失うものだが、フランクルは人が生きる意味を問うことの無意味さを自身の過酷な非日常性を通して生きたコトバとして「哲学」する。

 

こうした非日常性を生きてきたフランクルのコトバは、今でもわしらのような平和の時代に生きている者たちへ深い示唆を投げかける。

 

第十ニ章、「いのち」では

哲学を語る、などと前置きなどなくても、まざまざと哲学が表現されることはある。哲学の原意は、人間が人間を超える者の叡智に直接ふれる経験を指すからである

詩は、詩人の口から出るとは限らない。むしろ詩の言葉を口にした者が詩人なのだろう。詩学とは、詩と哲学のあわいに生まれる叡智の台座の異名である

p220

本書の核心とも言える「哲学」とは何か?という本来哲学が持っていた実践的な面を強調してこう語っている。 

 

終章、「読む」では「読む」ことと「書く」ことの意義を世界への手応えとして行うものだと指摘する。

ここでの「リアリティ」は「現実」と理解するよりも、「世界」、あるいは現実世界への「手応え」と理解したほうがわかりやすいかもしれない。

「書く」とは、単に事実を記録することではない。むしろ、世界を新たに出現させることである。さらに人は、「書く」ことによって、世界の創造に参加することができるとすらいう。

p254

人は「書く」ことによって、新たな世界を出現させる。

 

わしもこのブログで、自らが深く感じたことを「書く」ことによって、新たな世界を切り開けたらいいなと思う。