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Doraneko&Donuts

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マネー資本主義が日本をダメにした?今日から使える実践的里山資本主義講座 

おすすめの本

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

ドラねこが気になる書籍や、読んで面白かった本を紹介するドラねこ書店おすすめの本。

第99冊目は「里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)」を紹介するよ(=´▽`=)ノ

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里山資本主義

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

長いこと田舎暮らしをしていて、都会に憧れていた。

 

しかし、大学時代に東京に行ってしばらく暮らすうちに、その喧騒に息が詰まるような孤独感を覚えて、結局地元に帰ってきた。

今ではその方がよかったんだと確信しているが、多くの人が職を求めて都会暮らしに憧れ、心身をすり減らしながら会社勤めをしている若者が多いのだろう。

今の経済は、このような暮らしぶりを奨励している。「ちまちま節約するな。どんどんエネルギーや資源を使え。それを遥かに上回る収益をあげればいいのだ。規模を大きくするほど、利益は増えていく。それが『豊か』ということなのだ」と。100年余り前にアメリカが始めたこの「常識」は、日本などの先進国に浸透し、その後発展途上国にも広がっていった。垣根のないグローバル経済の体制ができあがって、今や世界の常識となった。ところが、世界中が同じ常識で、同じ豊かさを追い求めるようになった瞬間、先進国が息切れを起こし始めた。これが今の経済状況だと言ってよい。「里山資本主義」p4

この本は、そんな大多数の人達が慣れてしまった暮らしに、別の生き方、もっと楽な暮らしの仕方を投げかけてくる本である。

アメリカの後退を、まじめな業績回復をあてにしないで、なんとかしようとした頭のいい人たちがいた。彼らが目をつけたものこそ、「マネー」である。せっせとものをつくり、それを売って稼ぐのではなく、お金でお金を生み出す経済が、急速にふくらんでいったのである。リーマンショック後のアメリカで、私たちはその「やくざな経済のなれの果て」を目撃することとなる。p9

わし自身、この「やくざな経済のなれの果て」を体感した世代である。

大学を中退したわしは大都会で暮らしていくために否応なく就職先を探すハメになった。

しかし、直後に起こったリーマンショックのおかげで、就職先もロクに決まらず、結局はブラックな中小企業で働くことになった。 

 

その時の労働は過酷なもので、こんなことをしてまで生きていかなくてはいけないのか、と途方にくれてしまったが、当時は周りを見渡してもそうした暮らししかありえないんだという固定観念にとらわれていた。

しかし、この本ではそうした暮らし方が全てではないと述べている。

しかし、そもそも老後を豊かに暮らすためには、みんながみんな、例外なく、年金をもらうしかないのだろうか。「晴耕雨読」でいいではないか。晴れたら畑に出て、雨が降ったら、家でのんびり。年金の仕組みなど存在しない頃に考えられた、老後の理想的な生き方である。そういうとすぐに、「そんなのは無理だ、今の近代的な生活を送るには、お金が絶対必要だ」という反論が返ってくる。確かに100%は無理かもしれない。しかし、今支払っているものすべて、買わないといけないのだろうか。本当にその方が合理的で効率的なのか、と問いたいのだ。p13

「晴耕雨読」わしも確かにまだ都会で身をすり減らしながら生きていた時、この高度に発達した資本主義社会に若いながらも疑問に思っていた。

なぜここまでクタクタになるまで働かなくてはいけないのか?

なぜこんなに待遇の悪い環境に身を置き続けなくてはいけないのか?

 

「それが仕事だ」

と言われればなにやらその通りのような気がするが、それって単純に今の境遇に甘んじて思考停止状態になっているだけではないのだろうか?

そんな違和感を覚え始めたわしは、もう都会に対する憧れをあんまり抱かなくなった。

だって、それは自分の身を磨り減らして生きる生き方だったから…

 

個性のない都会・顔の亡くなった地方

そうして気が付くと、現代の日本の多くは地方も都会もあまり大差のないフラットな状態に置かれてしまった。

フラットというのは平等という意味ではなく、都市部と地方の特色がなくなったと言った方が語弊がなくていいだろう。

しかし、21世紀。ある程度の経済成長を果たし、物が溢れる豊かな時代になって、私たちはふと気づいた。全国どこに行っても同じ様な表情になってしまった日本の町を見て、違和感を覚え始めたのである。地域ごとの風土や文化を見直そうという運動が各地で始まる。スローフード、地産地消、スローライフ。昨今、人気を集めるご当地グルメのチャンピオンを決める、B-1グランプリも、そうした人々の気付きを端的に表すものと言える。里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。p102

里山資本主義は、もう一度都市と地方のあり方を経済的な観点も含めて、地方が都市に依存せず、地方の特色を失うこと無く地域の発展を促す運動と捉えたらいいのだろう。

そんな里山資本主義の代表的なものが、地域に眠っている宝を活かして地域の経済を再生させようという取り組みである。

 

特に今では林業を復活させるために木くずから生成したペレットを利用した、バイオマス発電やCLTという新素材を使った新たな木材の利用方法に注目が集まっている。

最後に、ヴィントハーガー社の開発部長・ヨーゼフゴイギンガー氏は、世界に先んじてバイオマスの世界を突き進むことは、後の世代への責任だと言い切った。「我々が望むか、望まないかということではないのです。20年後、30年後、あるいは50年後に化石燃料があるかどうか議論しても何の意味もありません。再生可能エネルギーを利用するのがあまりにも遅すぎたと、我々のことを呪う世代がいつか出てくるのは間違いないと、私は個人的に確信しています。再生可能エネルギーのために働くことは、負担ではなく、むしろ雇用を生み出す大きなチャンスです。オーストリアでは既に技術が開発されており、世界中でこの技術をマスターして人が求められています。わずかな人だけが恩恵に与れる化石燃料にしがみついているのとは、全く逆の状況です。500年後に、私たちの子孫は21世紀の人間を良心に従って行動したと評価してくれるでしょう。そうしなければ、無気力な人間たちだったと1000年後の歴史教科書に載ってしまうでしょう。私たちは今あるチャンスを無駄にしてはなりません。勇気と先見性を持たなければなりません。これは大いなる挑戦ですが、チャンスなのです。」p78・79 

オーストリア(オーストラリアではないw)は、隣国ロシア(当時はソ連)に「天然ガス供給を止めるぞ」と度々恫喝外交を受けてきた。

なので早い時点でそうした新たな森林資源を利用した地域に金が落ちるエネルギー産業が起こり、元々森林資源が抱負であるオーストリアでは地域に着実に根づいているという。

ところが、今日ではエネルギー資源はもうありませんから、この星にある自然が与えてくれるもので私たちは生活しなければなりません。この思考の大転換こそが真のレボリューション(革命)です。そうした革命に木材産業はうってつけなのです。森林は管理し育てれば無尽蔵にある資源だからです。その結果、経済は必然的に国家中心から地域中心になっていきます。製材業はたいていファミリー企業です。原料の調達も、せいぜい200〜300キロ圏内でまかなえます。生産には多くの人出がかかります。ようするに、木材は投資は少なくてすむ一方、地域に多くの雇用が発生する、経済的にもとても優れた資源なのです。p112

そうした自然エネルギーで地域の雇用を生み出すことに心血を注いでいるオーストリアでは、たいせつな資源である森林を乱伐しないように森林官(フォレスター)・森林マイスターという厳格に選ばれた人達によって森を守る取り組みもしているという。

 

国土の6割を森林資源で覆われている日本でもこうしたことは出来そうなように思えるが、この手の分野では日本はヨーロッパに比べて出遅れていると感じざるを得ない。

 

新たな雇用創出に取り組む日本

しかしそんな日本でも、先に紹介したCLTを用いた建築を普及させようと今新たな取り組みが始まっているという。

今まで、日本の建築史において、長年木材が占めてきた分野が、戦後は鉄たコンクリートなどによって奪われっぱなしだった側面があるかと思います。しかし、このCLTの登場によって、四階建て、五階建て、場合によってはそれ以上の中規模なビルまで木材で造ることが可能になるんです。p106

CLTとは従来の木材とは違った複雑な木の組み方をすることによって、鉄骨並の強度を誇り、おまけに燃えにくいという木材を使った新素材のことである。

このCLTは早くも日本に七階建てのCLT建築として持ち込み、実験によって阪神淡路大震災と同じ震度七の揺れに耐え切るという成果も見せたという。

 

こうした新素材を普及させることによって地域の森を守り、また経済も守ることに繋がる、こうした取り組みが里山資本主義なのだ。

 

里山資本主義にはもう一つ、今では都市部から地方に移り住んで、地域の素材を活かしながら新しい産業を起こす取り組みが始まっている。

大手電力会社から「島のジャム屋」さんになった松嶋さん。

「原料を高く買う」「人出をかける」という方法でジャムを作るというのも、マネー資本主義からではありえない逆転の発想といっていいだろう。

そうした仕入れた原材料からのジャム作りも松嶋さん流だ。まず、松嶋さんは、均一な味を求めない。一瓶一瓶味や風味が違っても当然なのだ。それが数えきれないほどの試行錯誤の結果たどり着いた結論だ。p164

「均一な味を求めない」「一瓶一瓶味や風味が違っても当然」という考え方もその土地で取れる新鮮な素材を活かした地域だからこそできる新たな里山資本主義であろう。

みんながみんな、同じような画一的な味でできたモノを作る必要はないのだ。

 

人が生きていくために大切なもの

こんな風に今でこそ広がりを見せつつある地域の特色を活かした取り組みを見て、わしらは何を思うだろう?

もう一度問おう。われわれが生きていくのに必要なのは、お金だろうか。それとも水と食料だろうか。間違えてはいけない。生きるのに必要なのは水と食料と燃料だ、お金はそれを手に入れるための手段の一つに過ぎない。(中略)山の雑木を薪にし、井戸から水を汲み、棚田で米を、庭先で野菜を育てる暮らし。最近は猪も鹿も増える一方で、狩っても食べきれない、先祖が里山に営々と築いてきた資産には、まだまだ人を養う力が残っている。これに「木質バイオマスチップの完全燃焼技術」といった最先端の手段を付加することで、眠っている前近代からの資源は、一気に21世紀の資産として復活する。さらには、震災で痛感した人も多いはずだ。お金と引き換えに遠くから水と食料と燃料を送ってきてくれているシステム、この複雑なシステム自体が麻痺してしまえば、幾ら手元にお金があっても何の役にも立たないということを。あのとき一瞬だけ感じたはずの、生存を脅かされたことへの恐怖。貨幣経済が正常に機能することに頼りきっていた自分の、生き物としてのひ弱さ自覚。その思いを忘れないうちに、動かなくてはならない。(中略)「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。お金が乏しくなっても水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予め用意しておこうという実践だ。勘違いしないでほしいのだが、江戸時代以前の農村のような自給自足の暮らしに現代人の生活を戻せ、という主義主張ではない。お金を媒介として複雑な分業を行っているこの経済社会に背を向けろという訳でもない、庄原さんも言っている「お金で買えるものは買えばいい、だがお金で買えんものも大事だ」と。前章のオーストリアの例のように、森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。p120・121

地域に昔からある資源に現代のテクノロジーを活かして、グローバルなマネー資本主義に対抗する。

そんなローカルな取り組みを、我々はもう少し真剣に検討してみる必要があるのではないだろうか?

 

こんなことを言うと、

「そんな全近代的な貧しい農村の暮らしは嫌だ。無理に決まっている」というお決まりの批判が来るのだろうが、果たしてそうだろうか? 

「太陽光とか風力だと、自然の変化で電気が安定しないから、使えないと電力会社などが言うのを聞いたことがあるが」「発電量の変動に対応し安定させる技術こそ、今日本が世界の先頭を走っている得意の技術だ。そこを強みに、我々は世界の受注競争を勝ち抜いていこうとしているのだ。日本の電力制御技術は世界一といってよい。震災のあと、計画停電で世の中の大混乱を引き起こしたのは、日本に技術がないからではなく、電力会社がいざというときの技術の使い方を学んでいなかったからだ」巷間言われている、「再生可能エネルギーなんてうさんくさい」という「ある種の正論」が、いかに日本経済の次代の競争力強化にとってマイナスか、わかってくるだろう。p241

里山資本主義は薪や過酷な労働を強いて、江戸時代みたいな生活をしろという主張ではない。

日本の世界一といってよい電力制御技術を使えば、地方の山に眠っている宝を活かした地域づくりで安定的な雇用と環境づくりができるのだ。

こうした取り組みが進めば、今話題になっている少子化問題にも貢献することだろう

高校で習ったのを覚えておられる方もいるだろう、「矛盾する二つの原理をかち合わせ、止揚(アウフヘーベン)することで、一次元高い段階に到達できる」という考え方を、弁証法という。この弁証法的思考を生んだのが、ドイツ語文化圏だ。そこに属するオーストリアで、マネー資本主義的な経済成長と同時に、里山資本主義的な自然エネルギーの利用が追求されていることは、むべなるかなと言える。対して日本人は、内田樹いうところの「辺境民」であるせいなのか、海外から輸入された単一の原理にかぶれやすい。こういう考え方では、マネー資本主義に一度手を染めたら最後、里山資本主義などというものは一切認めてはいけないことになる。逆に、里山資本主義で行くのであれば金は一切使うなというような極論も出てきやすい。p139

グローバル経済が行き詰まりを見せ始めている現代で、地域に根ざした新たな経済を構築する必要があるのではないか?と本書は問うているのだ。

結論だけを申せば、日本で「デフレ」といわれているものの正体は、不動産、車、家電、安価な食品など、主たる顧客層が減り行く現役世代であるような商品の供給過剰を、機会化され自動化れたシステムによる低価格大量生産に慣れきった企業が止められないことによって生じた、「ミクロ経済学上の値崩れ」である。従ってこれは、日本経済そのものの衰退ではなく、過剰供給をやめない一部企業(多数企業?)と、不幸にもそこに依存する下請企業郡や勤労者の苦境にすぎない。そしてその解決は、それら企業が合理的に採算を追求し、受給バランスがまだ崩れていない、コストを価格転嫁できる分野を開拓してシフトして行くことでしか図れない。同じく人口の成熟した先進工業国である北欧やドイツの大企業、イタリアの中小企業郡などは、まさにそのような道を進んでいる。これを経済学者の言い回しでは「イノベーション」だとか、「構造改革」だとか呼んでおり、そうした企業行動を促進する政府の政策を「成長戦略」とか言っているが、難しく言うからわからなくなるので、要するに「企業による飽和市場からの撤退と、新市場の開拓」がデフレ脱却をもたらす唯一の道である。(中略)今世紀日本の現実は、個人が貯金がまったくなかった終戦直後の日本や、今の多くの外国とは訳が違うのである。さらにいえば、高齢者地震が何を買う気がなくても、お金さえあれば消費回したい女性や若者は無数にいる。『デフレの正体』で論じたように、あらゆる手段を使って高齢富裕層から女性や若者にお金を回すこと(正道は女性や若者の就労を促進し、給与水準を上げてお金を稼いでもらうこと)こそが、現実的に考えた「デフレ脱却」の手段なのである。OECD(経済協力開発機構)の日本経済活性化に向けた提言や、IMF(国際通貨基金)の提言もまったく同じことを言っている。p270・271・272

それでは今まで通り、いつまでたっても回復しそうにない景気を、政府の舵取りだけを当てにして、青息吐息で貪欲なグローバルマネーの嵐に怯えながら過ごしていかなくてはいけないのだろうか?

わしにはそれこそが、非現実的で思考停止の弱者のように思えてならない。

「ニューノーマル」とは、リーマンショックを機に、アメリカ・マンハッタンの金融街を中心に唱えられるようになった新たな概念だ。 右肩上がりの前提とした投資をこれ以上期待できなくなってしまった、投資家たちの認識を呼び戻す言葉である。その定義は厳密にまだ定まっておらず、本場アメリカではあれこれ議論されているが、これを、若者たちの消費動向に結びつけて捉えたのが「ニューノーマル消費」である。 自分のための消費(ブランド品や高級品)を求めるのではなく、つながり消費(家族や地域、社会とのつながりを確認できるもの)を求め、新しいものをどう手に入れるかという所有価値でなく、今あるものをどう使うかという使用価値へ重心が置かれるようになっている。 そして、それは一過性ではなく、長期的、持続的な変化であり、後戻りできない消費傾向だと捉えている。p169・170

しかしそんなグローバル経済のお膝元アメリカでも「ニューノーマル消費」という新たな概念が唱えられはじめ、つながりを求める消費を今あるものを大切にしようという、日本人なら古代から持っていたような感覚を、持ち始めているという。

 

これは昨今持て囃されている「ミニマリスト」にも通ずる概念だろう。

ただ、日本のミニマリストと称する者が、どれだけ「ニューノーマル消費」という概念を理解しているか定かではないが……(;´Д`)

 

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誰かに「あなたはかけがえのない人だ」といわれる地域へ

里山資本主義は気楽に都会でできる以上のような里山資本主義の話、お読みになった方はどう思われるだろうか。「田舎の資源を活かして楽しそうな暮らしをしている人がいるんだな」、というレベルで受け止められてしまうことが多いかもしれない。だがそれだけだと、田舎暮らしを紹介するテレビの人気番組を見てちょっといい気分になったというのと同じだ。かといって、皆が都会を飛び出して田舎に移り住むというのもまったく現実的ではない。やれる人はぜひやったらどうかと思うけれども、ほとんどの人はそうもできないだろう。だが、0か1かで考える必要はない。里山資本主義はたおやかで、猛々しく主張することをないけれども一応「主義」なので、里山で暮らしていない生活者であっても、里山も畑も身近にまったく存在しなくとも、今の生活をちょっとだけ変えて、ささやかな実践をすることは可能だ。たとえば、多くの人がやっていることだと思うが、普段何気なくやっている食品や雑貨の買い物の際に、敢えて「顔の見えるもの」、どこか特定の場所で特定の誰かが地元の資源を活かして作っているものを選んでみる。あるいは経営している人の顔の見える小さな店に、敢えて足を運んでみる。少し高いかもしれないが、そこは「大物になった気分で、何の見返りがあるかわからない志援金を払ってみる」というのはどうだろうか。いつもは黙って買い物をしている人であっても、たまには店の人の会話をしてみるというのもよい。お金でものを買うという行為にくっつけて、ささやかに笑顔やいい気分を交換しておくと、ささやかな絆が生まれるかもしれない。p148・149

忙しい毎日を生きていると忘れてしまいがちだが、こうした「どこか特定の場所で特定の誰かが地元の資源を活かして作っているものを選んで」みたり、あるいは「経営している人の顔の見える小さな店に、敢えて足を運んでみる」 という行為は一昔の日本人ならどこでも普通に行われていることだった。

でもそうしたことが実は地域の雇用を守り、地方を活性化させてその場に住む人々を大事に守ってきたのだ。

 

そんな当たり前のことを新たな視点を交えて若い人たちと共に取り組めば、今のデタラメな金融政策よりもよっぽど大した景気刺激策になるような気がするが、そう考えるのはあまりに楽観的な考えだろうか? 

 

だいぶ長々と本書を引用しつつダラダラと書いてしまったが、最後に、本書の中でもわしが大切だと思うところを抜粋して締めくくりたいと思う。 

人間の価値は、誰かに「あなたはかけがえのない人だ」と言ってもらえるかどうかで決まる。人との絆を回復することで、そして自分を生かしてくれる自然の恵みとのつながりを回復することで、ようやく「自分は自分でいいんだ、かけがえのない自分なんだ」ということを実感できる。そのとき初めて人は、心の底から子どもが欲しいと思うようになる。自分にも子どもがいていいのだと思えるようになる。なぜなら子どもは、自分と同様に、そこにいるだけでかけがえのない存在だからだ。この自分の幸せを、生きている幸せを、子供にも味わって欲しいと心の底から思うとき、ようやく人は子どもを持つ一歩が踏み出せる。p290

「あなたはかけがえのない人だ」

読者の中には今の暮らしを続けていて、どれだけの人がこの言葉をかけられているだろうか?

 

そんな言葉を、

当たり前に掛け合える未来を、わしは取り戻したい。

 

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