(※この記事は2018/1/9に更新しました)

こんちわ、おいさんです。
今日は久しぶりにスゴイもん観ちまったなという感じだったので、オススメの映画について語って見たいと思うよ。

何を紹介すんだよ?

今回紹介するのは「セッション」じゃ

ああ、あの「ララランド」の監督のか。

今更わしが語るまでもないかもしれないが、なにがこの映画のすごいところなのか、詳しく解説していくのじゃ
最後のセッションはカタルシス!
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久しぶりに魂のこもった映画を観たような気がする。
これぞ、狂気!
全編に渡って熱き音楽青年と外道なまでの猛レッスンを指導する指揮者の白熱のバトルが展開されている。
主人公のニーマンくんは偉大な音楽家に憧れる夢を抱えたティーンエイジャー。
彼がシェイファー音楽院でも有名な指揮者テレンス・フレッチャーに運良く(?)認められて彼の指導するバンドに所属することになる。
偉大な音楽家への第一歩を踏み出したと思ったニーマンくんは勢い勇んでバンドについていこうとするが、フレッチャーの想像を絶する過酷な指導に身も心もすり減らされていく……というストーリー。
いやあ、壮絶。そして過酷。
こんなにも音楽を志す道が大変であるなんて思いもよらなかった。
ジャズバンドなんてもっとお気楽に黒人たちがピーヒャラピーヒャラセッションをしているもんだと思っていたけど、予想を遥かに裏切るフレッチャーの熱血指導に見ているこちら側はドン引きw
ホントにこんな風な鬼指導が行われているんかいな?
と、背筋が寒くなるような思いで映画を見てしまったけど、監督・脚本のデミアン・チャゼルによると、彼は実際高校時代に競争が激しいジャズバンドに所属していて、そこでかなり怖い目にあったという。
その時の経験を元に脚本を書いたというので、ここに描かれている熱血指導ぶりは実際にも行われていたのではないか推測せざるを負えない勝つためにはなんでもやる狂気の指導ぶりが伺える。
日本でも柔道やスポーツの世界で行き過ぎた指導が体罰だと言って問題になっているが、アメリカではスポーツの世界ではなくて音楽の世界でこのような行き過ぎた熱血指導が状態化しているのだろうか?
だとしたら、採点が曖昧な音楽という芸術の分野でこのような指導法は観ていてやはり疑問を持たざるを得ない。
とにかく指揮者が外道
とりわけスゴイのがこの映画のもう一人の主人公と言ってもいいフレッチャー氏の外道さだ。
彼はバンドに参加して初日のニーマンくんにも容赦なく彼の熱血指導が襲いかかり、猛烈な痛罵とも思える指導を浴びせていく。
その様子はさながら指導というより罵倒だ。
テンポのことで痛烈なダメ出しをされたニーマンは思わず涙を流すが、そんな姿にもフレッチャーはすかさず強烈な痛罵を叩き込む。
これに耐えるニーマンくんもすごい。
わしだったらこんなことされたら次の日には来なくなってしまうだろうがw
それでも偉大な音楽家になるという大きな夢を持っているニーマンくんには容易に引き下がれないわけがある。
それは世間から負け犬と呼ばれている下げずまれている親父のようになるまいと、必死に襲いかかってくる試練にひしひしと耐え、フレッチャーを見返すしかないのだ。
狂気の指導も気力で乗り越えようとするが……
そんなフレッチャーの鬼指導ぶりに果敢に食らいついていくニーマンくんもやったとの思いで得た首奏者のチャンスもほんのちょっとの些細なミスから失うハメになる。
フレッチャーに認められるために無理をしてこれまで過酷な練習に耐え、コンテストの演奏に間に合うように車を飛ばして駆けつけるも途中で事故にあい、なんとか駆けつけて演奏をするもうまく演奏することができず、フレッチャーに演奏を棄権されてしまう。
これには流石にブチ切れるニーマンくん。
そりゃそうだろう、これまで血の滲むような練習を文字通りして事故にあってもなんとか演奏しようとここまで必死に食らいついてきたのにこの仕打ちじゃフレッチャーを殴りたくもある。
伝説は鬼指導からしか生まれない?
ただフレッチャーの言い分にも一抹の理がある。
それは彼が音楽院をクビになり、あるJAZZクラブでニーマンと再開して語るように「チャーリー・パーカーなどの偉大な音楽家は悔しさがあったから伝説になった」という部分だ。
確かにまだ「バード」になる前のチャーリー・パーカーらJAZZの巨人たちは、皆当時の厳しいお客とミュージシャンたちとの競争に耐え、ステージ上で恥辱にまみれながら己を磨き、自分を強く大きくしていった。
そうした過酷な環境があったからこそ、彼らの音楽は花開いたといっても過言ではない。
フレッチャー曰く、そんな伝説の音楽家たちを作り出すためには自分が鬼指導をしなくては第二の「バード」は生まれない。ぬるま湯につかっていては音楽の未来は暗く、才能豊かなミュージシャンは生まれないのだ!と豪語する。
ただし、それはある意味では自分の指導を正当化しているだけにも聞こえる。
本当に音楽学校という教育の場で第二偉大な音楽家を作り出すことは可能なのか?ということである。
いくら理想を振りかざして生徒たちを熱血指導しても、うつ病になって自殺までさせるほど追い込むことが良いこととは思えない。彼はひょっとして自分の力を過信しているのではないだろうか?
本当に教育に狂気とも思える熱血指導は必要なのだろうか?
特に音楽の分野でそれが必要であるかは全く疑問を持たざるを得ない。
怒りで目覚める芸術性
そしてニーマンとフレッチャーはお互いにわだかまりが打ち解けたと思いきや、最後のジャズ・フェスティバルでフレッチャーが与えた屈辱に、ニーマンの堪忍袋の緒が切れ、壮絶なジャズセッションを繰り広げる。
目に狂気が宿っているニーマンくんw
今まで味わってきたフレッチャーからの傍若で理不尽な仕打ちに、
こちら観客側も思わずニーマンくんと一体化して怒りをそのドラムに乗せてぶちかます。
ここがこの映画の最大のカタルシス!ココらへんは本当に痛快なシーンだ。
怒りで目覚めたニーマンくんの音楽性とバンド側(フレッチャー)対ニーマンの熱いジャズバトルが15分以上に渡って繰り広げられる!
その原動力は「このやろう!」だ。
わしは常日頃から偉大な芸術には「このやろう!」が必要だと思っている。
そんな「このやろう!」がこの時のニーマンくんには嫌でも溢れ出たことだろう。
そのおかげで彼は思わず息を呑むその壮絶なジャズセッションをかまし、観客はニーマンくんと一体となってその場に居合わせることになる。
映画を見終わると、
それまでフレッチャーによって与えられたストレスがウソのように霧散してしまっている。
ここまでのめり込んだ映画は久しぶりであったと自身を持っておすすめできる一作でしたw