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[沈黙-Silence-]に見る本物の信仰とは?

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ドラねこ

こんちわ、おいさんだよ。

キミは神様を信じるかい?

急になんだ?

新手の宗教の勧誘か?

まいける
リク

しゅーきょーってなあに?

ポポポ?

ポコたん
クロ

神様を信じることでしゅ。

まあ、間違っちゃいねえけど、神様にも色々あってな。

例えばキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教……あ、仏教は仏さんか。

まあ、いろんな角度から人間を良い方向に導く手段って感じかな?

まいける
ドラねこ

そうじゃ。人の歴史は宗教とは切っても切れないものがあるのじゃ。

そこで紹介するのがこの映画なのじゃ!

なんだ?

まいける
ドラねこ

沈黙って何を押し黙っているんだよ?

まいける
ドラねこ

沈黙 -サイレンス-」はマーティン・スコセッシ監督が藤沢周平のファンであったことから、長年藤沢周平原作の「沈黙 (新潮文庫)」という本を映画化したいと願って、ようやく映画化された作品なのじゃ!

そこで今回はそんな「沈黙」について語って見たいと思うのじゃ。

荒海を乗り越えてやってきた神父

Amazonのプライム・ビデオで「沈黙」が配信されていたので観た。

これが公開されていた時、気になっていたのだがわしの住んでる地域ではどの映画館も公開していなかったのでDVDになるのを待つしかなかったのである。

 

それがここに来てプライム・ビデオで登場とはなんというタイミング!

観たいと思っていた映画をこうも簡単に見れてしまうプライム・ビデオのポテンシャルにただただ驚くばかりである。

 

話は変わって映画の内容だが、なんといっても重いw

上映時間が3時間近くある重厚な物語でテーマは宗教を扱っており、当時ご禁制だった長崎のキリシタンの過酷な境遇をこれでもかという残酷な拷問シーン満載でストーリーは進行する。

 

あらすじ

ロドリゴ神父とガルペ神父は、かつて自分を導いてくれた尊敬スべきフェレイラ神父が日本においてキリスト教を棄て、安息の日々を送っているという噂を耳にし、その噂の真実を確かめるためマカオで出会った日本人キチジロー(窪塚洋介)とともに密航船で長崎に渡る。そこで彼ら二人が観たものは悲惨で貧しく哀れな現地人の日々の生活と、本来のキリスト教とは違った信仰の姿だった。

 

物語の冒頭から映画は淡々と進む。

沈黙」というタイトルから想像する通り劇中ではいっさいBGMは流れず、当時の悲惨な隠れキリシタンの信仰の様子と過酷な生活が描かれている。

 

もう、観ていてただ悲しくなるばかり。

どれだけ長崎の人たちが当時の幕府(権力)の側に弾圧され、苦しめられていたのか、貧しい日々の営みの中で宗教に救いを求めていたのか、涙が出るほど悲しく切ない。

江戸幕府がどれだけキリシタンを弾圧し、苦しめていたのかがこの映画を観ているとよくわかる。

おぞましいほどに苛烈で過酷な棄教の弾圧を当時の人々に迫っていたのだと、改めて認識された。

 

しかし、ロドリゴ神父やガルペ神父にしてみたらそれよりも恐ろしいのは、当時の日本人の信徒たちが、実際にはキリストの教えを真に理解してはいなかったという点だろう。

 

それに加えて権力の側は無辜の民たちに恐ろしい拷問で棄教を迫り、事実何人もの人が投獄され殺されたりしてきた。

 

そうした信徒たちをつぶさに見ていくロドリゴとガルペの心中は想像できないほどの悲しみでいっぱいだったことだろう。

 

神は沈黙する

しかし、そんな現実を見て天に祈りを捧げても、また一人一人と経験な信徒たちは捕まり、隠れているロドリゴの前で凄烈な拷問によって虫けらのように殺されていく。

 

そんな姿を見ていく内にロドリゴは懸命に天に祈るが、天は祈りに答えない。

 

「あなたはいないのか」

 

ロドリゴの懸命な祈りに「沈黙」でもって答える天に、ロドリゴはいつしか絶望し、自らの信仰までもが揺らぎ始める。

 

人の弱さから逃げられないキチジロー

そうした迷いの中でまたしても彼の前に現れたキチジローによって、ロドリゴは窮地を脱したに見えたが実はあえなく捕まってしまう。

 

捕まったロドリゴに優しく声をかけた一人の武士がいた。

この男はオランダ語に堪能でロドリゴの通辞(浅野忠信)としてつけられた男で、ロドリゴに仏教の教えの中にも真の宗教としての歩みがあり、日本でキリストの教えを広めることの無意味さ、そして最後に「転ぶ」という言葉を教える。

 

「転ぶ」とはつまりキリストの教えを棄てること。

この言葉を噛みしめるロドリゴは、自らをキリストになぞらえて、一人十字架にかけられ処刑されることを覚悟する。

 

奉行所に引っ立てられたロドリゴは、そこで鬼奉行と恐れられた「イノウエ」と出会う。

その面持ちは以外にもおっとりとして物分りの良さそうな顔立ちで、それでいながら抜け目のない老爺「井上筑後守」の姿を見ていささか面食らう。

 

自らの信仰に揺らぐロドリゴ

善良な信徒に苛烈な拷問で棄教を迫り、数々の殺戮を繰り返した鬼奉行イノウエのその語る姿に、ロドリゴはいつしか自身の信仰までもが「間違っていたのではないか」という疑惑に苛まれ、一人孤独に牢屋で煩悶する。

 

そんなロドリゴをよそにまた一人、善良な信徒はロドリゴの目の前で有無も言わざす殺されていくのだ。

 

しかし神の教えに固執するロドリゴは多くの信徒が目の前で殺されてもなかなか教えを棄てることはできない。

苦しみの続く毎日。そんな時、ロドリゴの前にかつての師、フェレイラ神父が現れる。

 

フェレイラに諭されながらもなお自らの信仰にしがみつくロドリゴ。

そんな彼の前に、とうとう更に残酷な拷問が信徒たちに行われてしまう。

その様子を見ていたロドリゴは、あまりの過酷さに胸が押しつぶされそうになりながらも、棄教を拒む。

 

どれだけ祈っても祈りは天に通じない。奇跡は起こらない。

「あの人」は目の前には現れない。

 

その時、ロドリゴは踏み絵を前にして涙を流しながら「主」の姿を心の中に垣間見、泣き叫びうめき声をあげる信徒たちを救うために、泣く泣く銅板を踏んでしまう。

 

この映画を観て、最後に思ったのは「信仰」とはなんなのか?ということ。

ロドリゴは貧しい信徒たちを救うためにはるばる海を渡って危険を犯しながらイエスの教えを広めた。

そしてそうした教えは善良な民にいっときでも生きる活力を与えたのだ。

 

正しい行いをしながらも罰せられ、最後には志を曲げなくてはいけなかった。

どれだけ祈っても天に祈りは通じなかった。

その時のロドリゴの絶望は、フェレイラの苦しみは筆舌に尽くし難いものであっただろう。

 

世界の中でキリストの教えになじまなかった日本

結局、日本人にはキリスト教が根付かなかった。

その教えはかつてやってきた仏教のように日本の気候風土の中で換骨奪胎して別のものに生まれ変わった。

当時の江戸幕府を取り巻く世界の事情を踏まえるとそれも仕方なかったのかもしれない。

 

だが。幕末が終わり明治を迎えたときに、かつて弾圧され差別され、苦しんできた信徒たちは何を思い、何を感じたのだろう?

 

今は自由な時代である。

職業も信仰も自由が保障され、好きなことを信じて生きてゆくことができる。

そんな時代にありながらも人は少しずつ宗教から遠ざかり、混沌とした迷いの中で日々の生活を送らなければならない現代の日本人は、果たして本当に幸せなのだろうか?

 

イエスの教えを棄てたように見せたロドリゴの中には最後まで小さな十字架が握られていた。

 

「信仰を持ち続けること」と「捨て去ること」一体どちらが正しかったのだろう?

 

宗教なき時代に、かつて海を渡り命がけで布教に励んだ宣教師たちの物語はわしらになにを教えてくれるのだろう?

 


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