
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミはグローバルな視点で聖書を読み解いたことはあるかい?
聖書?
宗教の本だろ。オレ信仰心なんてないし、関係ねーよ。


それは大間違いじゃ!聖書はいま世界の根っこを作っとるんじゃぞ!
え?なんか話でっかくね?
どういうことだよ?


ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も全部そこから生まれとる。
つまり、政治、倫理、戦争、平和、全部の前提じゃ。
なるほど、確かにこの世界の趨勢は大体はキリスト教だよな。
でも日本は別に関係ねえだろ?

\ ココがポイント!/

『教養としての聖書』は、現代日本人が持ちがちな「宗教=信じるもの」「聖書=キリスト教の本」という誤解を根底から解きほぐす知的書籍であるのじゃ!!
では今回は「教養としての聖書」を紹介していこう!
著者・橋爪大三郎は社会学者としての視点から、聖書を「文化の中核」「西洋文明のOS」として読み解く。聖書を知らずして国際政治や哲学、文学を語ることは、もはや不可能であるという強烈な主張が本書にはある。
特筆すべきはそのわかりやすさと、どの宗教にも偏らない中立的かつ構造的な分析である。神を信じるための本ではなく、神がどのように「語られ」、どう社会が作られてきたかを理解するための地図。それが本書の位置づけだ。だからこそ、「宗教が苦手」な読者ほど読むべき本である。
教養としての聖書
わしが通った大学は幸か不幸かキリスト教を学問の柱に掲げけている大学だった。
入学当時、大学で「礼拝」という講義があるということで、聖書が教科書に指定されていたのだ。
当時は気にもとめなかったのだが、わしも他の生徒と同じように大学側から聖書をもらった。
わしがもらった聖書は新約聖書。
残念なことに旧約はこのテキストの中に入っていないのだが、わしはいつかこの世界でもっとも読まれている本を読破しようと持ち続けていた。だが、長過ぎることと難解なために未だに挑戦できずにいるw
そんな折に、先日セールで大変おもしろい本を手に入れた。
それがこの「教養としての聖書」である。
以前もわしはキリスト教についての入門書として、
橋爪大三郎の「ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)」を取り上げてこのブログで書評を書いた。
今回はその続きというか、どちらかと言うとこちらの本をまず最初に読むと以前紹介した「ふしぎなキリスト教」がよりもっとわかりやすくなるじゃないだろうかと思って今回この本を取り上げてみる。
それほどまでにこの本は、キリスト教をよく知らないズブの初心者にはうってつけの1冊なのだ。
わしもこの本を読んで大体の聖書の大枠がつかめた気がする。
色んな資料が集まって出来たスーパーテキスト
では以下にあらすじを要約してみよう!
あらすじ
本書は、旧約聖書と新約聖書の構造を、宗教的文脈ではなく社会的・思想的背景から解説する。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が、どのように聖書と関係し、分岐し、影響し合ってきたのかを丁寧にひもといていく。
第一部では、旧約聖書における神と人間の契約、預言者の役割、モーセ律法などを取り上げる。次に新約聖書では、イエスの思想と行動、パウロによる教義の確立が中心となる。
また、宗教的対立や現代社会の倫理観の根源にある「聖書のロジック」が、どのように現在にも息づいているかを明示する。最後には、宗教の「知」としての価値が強調される。
つまり、これは「信じる」ための書ではなく、「理解する」ための教養書なのである。
まず驚かされるのは聖書が実はE資料・J資料・P資料・D資料と4つの資料を元に複雑に書かれているということだ。
聖書編集説は、人間が聖書を編集したという立場ですから、聖書を神の言葉と信じる信仰の立場とは、相いれないところがあります。
けれども、学者のあいだでは、聖書編集説は常識と言ってよく、聖書学はそれを詳しく解明する学問です
聖書を研究している学者の間では、聖書というテキストが明らかに複数の人間によって手を加えられて書かれているということは常識だという。
それを踏まえながら読んでいくと、
旧約聖書は、新約聖書の内容を予告するものとなります。新約聖書の内容は、旧約聖書の約束を実現するものとなります。ある書物を読むときに、別な書物にどう書いてあるかが問題になるのです。
なぜなら、神は人びとを「永遠に生きて治める」からです。創世記で天地を創造したときに、やがてイエスが生まれることを、知っていたに決まっているのです。
パウロに聖霊を送って手紙を書かせるとき、旧約の預言者の預言を踏まえていたに決まっているのです。
書き手の意識や意図を越えた神の計画が、聖書の書物のあちこちにちりばめられていて、全体を通じて明らかにされている、ことになるのです
キリスト教徒はこのように、聖書の全体をまるまる神の言葉として読んできました。
後に書かれた書物は、 前に書かれた書物を引用している。それは読めばわかります。けれども、前に書かれた書物も、後で書かれた書物を予想している。
そう解釈しながら読みます。 そればかりでなく、はっきり引用や参照の関係がなくても、そこに関連をつけて解釈してよいのです。
こうやって読むと、聖書の多くの書物が、境目をなくして ひとつに溶け合い、スーパーテキストみたいになります。
それを前提にものを考えるのが、正統のキリスト教です
書き手の意識や意図が明らかに加わっているにも関わらず、聖書というテキストは一つの整合性を持って、後世の多くの人間に読まれるスーパーテキストになったという。
古代ユダヤ人の歴史観と過去を見ない日本人
ユダヤ人は、バビロンに捕囚されました。バビロンは占星術の本場で、天体を神さまみたいに思っていた。
天体が人間の運命を左右するのだ、と考えました。そんな占星術なんかクソ食らえ、と創世記は主張しているんです。ヤハウェが天体を造った。そして天井に貼り付けた。
天体は、ただの物体(モノ)である。人間の運命を左右したりできません。だから一神教は、天体を拝んだりしないんです
天体をタダのものとして扱う。
この感覚は天照大神を祀る日本人と一神教ではかなり感覚に開きがあると考えたほうが良い。
「神の計画」って、わかりますか? ヨセフは兄たちに嫌われたり、殺されそうになったり、外国に売られて奴隷になったり、濡れ衣で監獄に放り込まれたり、いろいろしてるでしょ。
これらはすべて、イスラエルの民を、一時エジプトに移住させようという神の意図を実現するためなんです。当人たちがそのことを気づかなくても、神の計画が実現していくのですね。
だから目先のことにとらわれてはいけない。この世界には、歴史法則があるのです。
神の計画を、歴史法則と言い換えてみると、マルクス主義の考え方とまったく同じです。当事者は意識していなくたって、こうなって、ああなって、誰にもどうすることもできない歴史法則(階級闘争と社会の発展)が、結局、実現してしまう
「神の計画」と聞くとなんかエヴァの「人類補完計画」みたいなのを思い出してしまうけど、ようするにこの世界のことはすべて神によって決められているという考え方が発達したことによって、より西洋では歴史を重視するということだろう。
そもそも、歴史が存在しているという考え方は、その歴史のストーリーを設計し、視ている主体がいなければ成り立たない。インドに歴史がないのは、その主体がないから。
インド人は、永遠に時間がグルグル回ると考えてるでしょ。計画もへったくれもないんですね。
だけど、ユダヤ人は、神ヤハウェが歴史を計画してると考えるから、歴史に敏感になる。聖書も歴史の本だし、歴史を書きとめるようになる。一神教は歴史 意識が強烈なんです
日本人はすぐに過去に起こったことを「水に流し」たがるが、西洋人はそう安々と水に流したりはしない。
それ故に歴史認識は重要なのに、当の日本人たちは過去の歴史を重視せず、今の自分達は祖先とは違うと思いたがるフシがあるが、そうした感覚は世界では通用しないということだろう。
神と議論できる西洋人
ヤハウェは、神の名ではなく、神の性質をあらわす形容句なのです。神は、唯一の存在なので、名前(固有名)がありません。あったらおかしい。
ヤハウェって神様の名前ではなく神の性質を表している形容句なんですねw
唯一絶対の存在だから神に名前があったらおかしいという考え方もなかなか新鮮ですw
するとモーセは、ヤハウェに向き直って、抗議します。命令どおりにファラオのところに行き、あなたの名前を出したのに、結果は前よりひどくなったではないか。『創世記』のアブラハムもそうでしたが、理由があれば、ヤハウェと論争してもよいのですね
ここは面白い点ですね。モーセは神に反論してます。抗議しています。神はえらいですけど、理屈があれば、何を言ってもいい。「神さま、なんでこうなんですか?」みたいな。これが一神教の考え方です。日本人は相手がえらいと、「ハハー」みたいになっちゃって、論争できませんね。だからビジネスの交渉でも、世界で渡り合えないんです。
相手が神でも議論するんですから、相手が人間なら、大統領だろうと、社長だろうと、そんなの目じゃない。相手の地位が高かろうと、ガンガン議論する。これが聖書を読んだ、一神教徒のやり方です。だったら日本人も、聖書を読まないでどうしますか
この神とモーセのやり取りもおもしろい。
ここは西洋人の本質を表す箇所といっていいでしょう。
神とも平気で議論をするんだから、相手が人間なら朝飯前、という感覚は日本人にはまったくない。
だから西洋のヤツらはあんなにガンガン議論してくるんだね。
なるほど日本人には太刀打ちできないわけですわw
グローバルに対応するなら聖書を読むことは必要だ
このように昨今グローバル化と言われて久しいが、日本人が世界に出て行って戦うには、やはり西洋人の考えの元になる聖書を理解することが必要である。
聖書には西洋人の思考の原点が詰められている。
そうした思考の原点を理解せずに世界に羽ばたいていっても、太刀打ち出来ずに帰ってくるだけだ。
ビジネスでも、スポーツでも、芸術分野でも、世界に通用する人材になるためには聖書をもっと読み解いて理解することが必須であるはずだ。しかし、その重要性に気づいている人がどれだけいるのか。疑問である。
良いところ
次に良いところを挙げていこう。
難解な聖書を社会学的に翻訳してくれる
聖書を直訳で読むと、神話や比喩の嵐で意味不明になりがちだが、本書では社会構造や権力関係、共同体倫理といった現代的な文脈で再解釈されている。たとえば「神の怒り」や「契約」は、単なる感情や宗教的義務ではなく、「国家と個人の関係性」として読める。
難解な概念が地に足の着いた知として描かれている点は大きな魅力だ。
宗教的に中立である
筆者はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない立場から、各宗教の教義や聖書の内容を冷静に俯瞰している。そのため、読者は特定の信仰に引っ張られることなく、純粋に知識として受け取ることができる。
この中立性こそ、宗教を敬遠する日本人読者にとって最大の安心材料である。
現代の問題に直結する視座を提供する
「戦争と宗教の関係」「性と倫理観」「正義と罰」など、現代社会で議論されるテーマの多くが、実は聖書的な価値観に影響されている。本書を読むことで、ニュースや国際情勢、法制度の根源にある「目に見えない土台」を認識できる。
単なる古文書の解説にとどまらず、現代との接続点を多数提示してくれる。
悪いところ
では以下に悪いところを挙げていこう。
情報量が多く一読では理解しづらい
平易な語り口ではあるが内容は極めて濃密で、一度読んだだけでは頭に入りづらい箇所も多い。聖書に関する前提知識がゼロだと、固有名詞や文脈の理解に時間がかかる可能性がある。
宗教に関心がない人には入口が重い
そもそも「聖書」に興味がない層にとっては、タイトルからしてハードルが高く映る。「教養として」と冠してはいるが、心理的な距離を感じる人も一定数いるだろう。導入にもう一段わかりやすい誘導があると、さらに多くの層に届いたはずだ。
図や年表が少なく、視覚的に理解しづらい
構造的な説明が多いにもかかわらず、図表やマッピングが少ないため、情報の整理が読者任せになっている。複雑な関係性を視覚的に見せてくれる補助資料があれば、読後の理解度がより深まっただろう。

聖書なんて長ったらしくてとっつきにくいと思っている人は、ぜひ本書を手にとって、西洋人の思考の断片でも理解してみるのはどうだろう?
まとめ
こんな人におすすめ!
- 世界史や国際情勢を「聖書的背景」から読み直したい人
- 宗教には興味がないが、教養として押さえておきたい人
- 現代社会の倫理や価値観に疑問を持ち始めた知的探求者
『教養としての聖書』は、単なる宗教解説書ではなく、現代人が見落としがちな「文明の設計図」を照らし出す知的武器である。
著者・橋爪大三郎は、複雑な聖書世界を社会学の視点で読み解き、誰もが関係しているにも関わらず見えにくかった“聖書的価値観”を明らかにする。読みやすさと深さを兼ね備えた本書は、知のインフラを整える一冊として極めて有用だ。
宗教が苦手な人ほど、むしろ読むべきである。

この本があれば、宗教を怖がることもなかったのじゃ。もっと早く読むべきだったのじゃ!