こんちわ、おいさんだよ。
キミは牛のように歩むことはできるか?
無理だよ。俺ウサギだもん。
ちげーよ「牛のように人生をゆっくり慌てず歩めるか?」って聞いてんだよ!
ああ、そういうことね。ま、わかってはいたけどねw
ムカッ!この野郎……
今回はそんなお前みたいな軽薄なやつのために「夏目漱石の人生論 牛のようにずんずん進め」について語ってみるのじゃ!
前回まではこちら
セロニアス・モンクに学ぶ生き方。という話(*´ω`*)
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どんなに虐げられても我が道を進む そんな大きなセロニアス・モンクの生涯に学ぶ
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夏目漱石の人生論 牛のようにずんずん進め
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自分の人生を振り返ると、まさしく愚鈍な歩みだった。
もう少しうまく立ち回れば今のわしはなく、もうちょっと有利に人生を生きていたかもしれない。
後悔はすまい。そう誓っていたわしが、最近まで自分の過去をウジウジと嘆いていた。
そんな自分の浅ましさをグッと引き締めてくれる本にであった。
それがこの「夏目漱石の人生論 牛のようにずんずん進め」である。
本書は齋藤孝が夏目漱石の弟子にあてた言葉などを主にまとめた本である。
曲がりなりにもわしにだって夢がある。
それを追い求めながら、こうしてブログを書いている。
だが今月、個人的なことで仕事をしくじってしまい、どうにも8月は夏も本番だってのにテンションが上りきらずにウジウジと毎日を過ごしていた。
こんなことを続けていていいんだろうか?
こんな具合で新しく始めたWordPressのブログはうまくいくのか?
とか、今更考えなくても良いようなことを考えながらこの文章を書いている。
そんな折に、先日図書館で見つけた。
なんとなくその時のわしに多大な勇気を与えてくれそうだったから手にとってみた。
そんな漱石の温かな言葉をここで本書からいくつか抜粋していこう。
歩みが遅くても信じた道を進め
人のためになり、国のためになる大樹の種を播きなさい。
それが<真面目に種播きをする>ことだと説いています。
<すぐに咲く花は枯れるのも早い>のです。
なるほど、遅くたっていいんだ。
人よりも歩みが遅く、この年になってもまだなんにも功績を残していないわしでも、今のまま自分の道を信じて突き進んでいけばいいんだな。
と、思わせてくれる非常にありがたい言葉である。
何をしても自分は自己流にするのが自分に対する義務であり、かつ天と親とに対する義務だと思います。
天と親がコンナ人間を生みつけた以上は、コンナ人間で生きておれという意味よりほかに解釈しようがない。p25
「自己流」これほど自分に当てはまる言葉はない。
今のわしは誰の教えも受けずにどこまでも「自己流」で生きてきた。
仕事しかり趣味しかり、すべてが自己流で何ら人を頼りにしたことはない。
だが、そんな生き方に行き詰まりを感じていたわしには、こうした偉大な文豪の言葉は体の奥から湧き出るように力強い。
速く進む馬は積みあげていく。
ゆっくりだけれどもずんずん歩んでいく牛は確実に成果を積み上げていく「われわれはとかく馬にはなりたがる」が、仕事とはそういうものではない。
「なかなかなり切れないが、牛になることはどうしても必要です」と漱石は芥川と久米に説いています。
p33
今は一人孤独にブログを書いたり、マンガを描いたりしているけど、多くの人間がわしの横を通り過ぎていった。
それを横目で眺めながら、それでも自分が「こっち」だと信じた道をゆくわしにとって、なかなか「牛」になるということは勇気がいる。
どうしても早く結果を出さなくてはいけないという焦りに枯られてしまって、悠長に牛になんかなってられるかよ、わしは「馬」のようにさっそうと駆けていきたいんだ!と思ってしまう。
だが、そうは思っていてもこんな自分の人生がまるで「牛そっくり」じゃないかとある日気がついたわしは、この文章を見たとき漱石に温かく励まされたような気がした。
そうか……「牛」でもいいんだ。
「馬」も好きだけど、わしには柄にもない道だったのかもしれない。
頭の悪い人生を歩むな
手紙のなかに「頭を悪くしてはいけません」という一節があります。この作品も認められない。あの作品も認められない。だからといって、ああ、もうだめだとあきらめたり、絶望したりすることを「頭が悪い」と表現しています。途中であきらめずに、牛のように一歩一歩、自分の力を試していきなさいと説いているわけです。
p34
何を書いても認められない。何を作っても認められない。
だが、そこで諦めてしまうことを漱石は「頭が悪い」と言った。
あれもダメ、これもダメでもそれでも自分が信じたものを書きなさいと弟子たちを励ましているのだ。
ついこの間までのわしがそうだった。
それで焦って仕事を貰おうとガツガツしていたところ、先日痛い失敗をした。
なんともバカみたいな話だが、功を焦ってガツガツ仕事を求めようとすると、良くないみたいだ。
それは前回紹介した「セロニアス・モンクのいた風景」でもセロニアス・モンク自身が彼を慕ってやってきたミュージシャンに語っていた言葉であった。
「ガツガツ仕事を求めようとするな」
これからはそんな先人の言葉を、もっと深く噛みしめて生きていこう。
狐疑(疑いためらってぐずぐず)するなかれ。
躊躇するなかれ。驀地(まっしぐら)に進め。
物は最初が肝要と心得よ。
p38
ついこの間まで自分の仕事を辞めてしまおうかとも思っていた。
だが先月、ありがたいことにたくさん仕事をいただけたのでなんとか苦境を凌ぐことができたのだ。
「驀地に進む」ということの大切さ。
そして進むのなら最後まで進みきってしまえ、という力強い言葉に勇気が湧いた。
どこまでも個人主義で行け
「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。
茫然と自失していた私に、ここに立って、この未知からこの行かなければならないと指図をしてくれたものは、実にこの自我本位の四字なのであります」
<自己本位><自我本位>の四字が自分の進むべき道を指し示してくれたと語っています。
自己本位というと、自分がよければよしとする利己主義、自分の利益だけを追い求めるエゴイズムを思い浮かべるかもしれませんが、漱石の言う<自己本位>は<個人主義>とも言うべきものです。個人主義とは、<自分という個を信じて突き進む>ことです。
p62
自己本位といえばわしほどの自己本位もあるまい。
親の心配を顧みずに自ら好き勝手に信じた道を突き進むことに若干後ろめたい思いはあるが、これはもう性格なんだからしょうがないと思ってひたすら後悔しないように毎日を生きている。
そんなわしは個人主義と言って良いのだろう。
人間は自分の力も自分で試してみないうちはわからぬものに候。
機会はなんでも避けないで、そのままに自分の力量を試験するのが一番かと存じ候。
p73
どんなことにもチャレンジしろ。
自分を過小評価してなにもしないで尻込みするのは良くないぞ、と仰られているのだろう。
わし自身の仕事が先月劇的に仕事が増えたのも、今まで嫌厭していた仕事に勇気を出してチャレンジした結果だった。
おかげで今では素晴らしい収入を獲得できて胸を撫で下ろしているが、こうしたチャレンジスピリットはいつまでも忘れてはいけない。
君は人より高い平面にいると自信しながら、
人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。
しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。
p80
これは寝耳に水というか、思わぬ痛いところを突かれたという感じだった。
誰も認めてくれない「オレのことをナニも見てくれない」その程度の平面ならば大したことはない。と漱石は言っている。
確かにそうだ。
大体いつもうまくいかなくなるととかく他人や世間を恨みがちになってしまうけど、そんな次元で不平を言ってるようじゃ「まだまだ」なのだ。
それに気づいて自らを鍛えるものに、明日の未来は開けるのだ。
漱石は小説『野分』のなかで、自分がどれほどに自分の理想を現実にできるかは自分自身にさえわからない。過去がこうであるから、未来もこうであろうと憶測するのは、今まで生きていたから、これからも生きるだろうと即断するようなものである。
「成功を目的にして人生の街頭に立つものはすべて山師である」と書いています。
p87
「成功を目的にして人生の街頭に立つものはすべて山師である」
見返りを求めて夢を追う人間も、漱石の言うところやはり「山師」程度の存在なのだろう。
わしも自分の道を極めたいと思うのなら、安易な成功は望ますに突き進んだ方が良いのかもしれない。
真面目に生きていれば世間は間違って当然のもの
現下のごとき愚なる間違った世の中には、
正しき人でありさえすれば、必ず神経衰弱になることと存じ候。
もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だろうと思う。
p129
こんな間違った世の中で「真面目」に生きていれば神経衰弱になるのは当然だ。
漱石は真面目ということにこだわった人間である。そんな真面目に生きようとすればするほど、この世は辛く、自分の神経が参ってしまうのは当たり前だと漱石は言っている。
これは今の世の中でもそう変わらない。
世間は今でも要領の良い奴だけがのさばるシステムになっているのだ。
だが、だからといってそんなC調な奴らに負けてはいられないのだ。絶対に!
漱石にとって世の中の「敵」とは「僕の主義、僕の主張、僕の趣味から見て世のためにならんもの」を指しています。世の中は自分一人の力ではどうにもならないかもしれないが、それでも闘って討ち死にする覚悟である。天から与えられた本領を発揮して死んだという慰めがあればそれで十分だ、と書いています。
p136
「討ち死にする覚悟」これは個人主義で歩もうとする人間は必ず持ち合わせておかないとマズイ心持ちである。
そんな心意気を持って大きな敵と戦わずして、自らの人生を生ききることはできない。
カンタンに言ってしまえば「世の中に受け入れられたいなんて甘えは捨てろ!」ということなのだろう。
僕の旋毛(つむじ)は直きこと砥(し)の如し。
世の中が曲がっているのである。
p138
ここまで読んできて、どうやらわしと漱石は似ているところが多くあるようだ。
その最たるものがこの「つむじ曲がり」というものだろう。
もちろん、わしは漱石ほどの大人物になれるわけもないが、過去の文豪が背負った重い覚悟をわしも少しは背負って、この「狂った」世間を生きていきたい。
こうなれば、どうせ「死なばもろとも」さ。