
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミは保育園義務教育化を知っているかい?
え、保育園って義務にすんの?それは国が育児するってことか?


昔は三つ子の魂百までじゃったが…今はゼロ歳から国家教育とはのう。
でも現実、保育園入れなくて詰んでる親多いんじゃね?


そうじゃのう、だが義務にすれば全て解決するというのが今回の話じゃ。
そんなこと可能なんか?

\ ココがポイント!/

『保育園義務教育化』は、現代日本の家族観・教育観・国家の役割に鋭く切り込む問題提起の書なのじゃ!!
著者・古市憲寿は少子化とジェンダーギャップという構造的問題に対し、「保育園を義務教育に組み込む」という大胆な提案を行っている。
一見過激に思えるこの主張は、現実の保育環境や制度の不備、家庭に依存する育児観の限界を照らし出す。本書の真価は、その提案の是非よりも、読者に「なぜ今の制度に違和感を覚えないのか」と問いを投げかける点にある。単なる育児論ではなく政治・社会制度・文化論まで横断し、日本の未来像を描き出す社会派エッセイとして読み応えがある。
感情より論理で社会を動かす思考材料が詰まった一冊である。
保育園義務教育
もう随分前のことになってしまっただけに、現在日本の保育園問題について悲痛な叫びがお母さんからあがったことを多くの人は忘れてしまったかもしれない。
働く女性の悲痛なまでの叫びである待機児童の問題はいまだ未解決なままである。
そんな状況にこの「保育園義務教育化」読んでみた。
一見「なるほど」と目からウロコが落ちるような視点が多かった。
それにしても著者がなぜいきなり待機児童の問題に興味を持ったのだろうか?
本人の言葉にはこう書かれている。
(前略)そんな風に「赤ちゃん」や「子ども」を遠いものだと思っていた僕が、この『保育園義務教育化』という本を書くことになったのは、本当に偶然のことだった。
椎名チカさんのまんが『37・5℃の涙』をお風呂で読んでいて、あまりにも子育てをするお母さんの環境が理不尽だと思ったのだ。
「37・5℃」とは、一般的に言われる子どもを保育園や幼稚園に預けられる体温のボーダーライン。子どもがその体温を超えてしまうと、親(多くの場合、お母さん)は仕事中であろうが、保育園まで我が子を迎えに行かないとならない。
そんなときに「病児保育」という制度があることを知っていたし、その先駆けが友人のい社会起業家である駒崎弘樹さんだということも知っていた。だけど『37・5℃の涙』を読んだ時、急に実感を持って「子ども」をめぐる世界の異様さに気づいたのだ。
なぜ労働力不足と少子化の時代に、働きたいといってくれているお母さんたちが、ここまで苦労しないといけないのか、と。
p184
このように現状のお母さんの置かれている理不尽な環境に疑問を持ち、この本を書いたと言及している。
本書を読んで驚かされたのが、過剰な母性を強要する日本の社会状況や、科学的根拠の怪しい「母乳教」など様々な不合理で理不尽な状況に晒されつつも、歯を食いしばって働こうとしている女性たちの姿が、リアルな数字を持って克明に紹介されている点である。
なぜ日本の女性たちがここまで虐げられながら子育てをしなくてはいけないのか?
本書で紹介されている「37・5℃」という、一般的に言われる子どもを保育園や幼稚園に預けられる体温のボーダーラインなどというものがあることすら、未婚のわしには知らなかった。
日本で女性の働いている割合が最も少なかったのは、1975年のことである。
だから戦後日本で、外で働いた経験がもっとも少ないのは、団塊世代の女性ということになる。団塊の世代とは、1974年から1949年に産まれた人たちのことだから、今だいたい60年代後半の人々。ビートたけしさんや小倉智昭さん、泉ピン子さん世代である。
ということは、男性は「サラリーマン」として外で働き、女性は「専業主婦」として家事と育児に専念するというモデルには、たかだか週十年の歴史しかないということになる。
というか、それは経済に余裕のある時代にのみ成立する生き方だ。事実、1990年には、専業主婦がいる世帯の数は、夫婦共働き世帯の数に追い抜かれている。
「サラリーマン」と「専業主婦」は1960年から1990年頃の、日本経済が好調だった時代の産物だったのだ。それは日本の伝統でも何でもない。
p100
「サラリーマン」と「専業主婦」は1960年から1990年頃の、日本経済が好調だった時代の産物だったのだ。それは日本の伝統でも何でもない。」という点には非常に頷ける。
行動経済成長時代という一時期の歪んだ価値観を未だ社会に押し付け、家事を労働とは認めずに一方的に女性がこなすものと決めつけ、それでいて働きたいのに子供を預ける場所すらもないという環境が女性の社会進出を阻んでいるのに、この国の政治家はとんと無頓着であるようだ。
今の自民党などが押し付ける家族観は、社会の実情に合わない家族観なのではないだろうか?
そんな中、本書でも再三強調されているのが早い段階での乳幼児への教育の大切さだ。
古市氏は1960年代アメリカで行われた「ペリー幼稚園プログラム」を例に乳幼児教育の重要性を指摘する。
「ペリー幼稚園プログラム」とは、直接的な頭の良さを計る「IQ」や「学力」とは違った、「人間力」や「生きる力」といった「非認知能力」を向上させることに主眼をおいたプログラムだ。
アメリカでは長いことこうした科学的根拠の基づいた実験において 「非認知能力」が高いものほど社会でも成功が高いという結果が出ているという。
確かに、この社会、「学力」だけでは生きていけない。むしろ「やり抜く力」や「意欲」や「根気がある」といった「非認知能力」が重要になる局面は多い。
ヘックマン教授らの研究によれば、人生における「成功」は筆記試験で図れるような「賢さ」よりも、この「非認知能力」が重要になることがわかっている。
意欲や、長期的計画を実行できる力、他人と働くために必要な感情の制御が、大学進学率や年収、健康、犯罪率に大きく関係するというのだ。
p71
これは多くの方が社会において実感されていることだろう。
詰め込み教育を施された「頭でっかち」ほど社会において役に立たず、「やり抜く力」や「意欲」のある人間の方が出世したり、周囲の人間とうまくコミニュケーションを取りながら仕事をすすめることができる場面に多く出くわしたことはないだろうか?
わし自身もそうした人は働いてきて現場で多く見てきたし、この指摘は決して間違っていないと思う。
そして何より、こうした「非認知能力」が高い人間は、将来、社会に出ても感情の制御が効いて、大学に進学する割合も高くなり、年収が高い仕事に就けたり犯罪率も低下することがわかっているという点が非常に面白い。
ちなみに女性の労働力率を上げるには、子ども手当てを支給するのではなく、保育園を整備したほうが効果的なこともわかっているという。
「経済成長」が大好きなおじさんたちは、「東京オリンピック」や「リニアモーターカー」といった話題は大好きだ。そのくせ「少子化」や「待機児童」といった話題には、「なんとかします」といいながら、あまり興味がなさそうである。
しかし実は、「保育園義務教育化」は、少子化解消のみならず、日本の経済成長にも貢献するアイディアだったのだ。
p123
こうした良い事ずくめの「非認知能力」の大切さをこうまで説かれたら、親御さんは是が非でもこの力を高めたいと思うのではないだろうか?
草食系でも大丈夫?
しかし、そうした少子化問題もおっさんたちによって「若者のセックス離れ」みたいなことで批判されることがある。
そんな若者の草食化も現在の少子化においてまったく根拠のない的はずれな議論であると古市氏は指摘する。
また国立社会保障・人口問題研究所(国もきちんとこういうことを調べているのだ)が2010年に実施した調査によれば、20歳から24歳の未婚男性のうち、セックスの経験がない人は40・5%だった。
ちなみに30歳から34歳の未婚男性でセックス経験のない割合は26・1%だった。また、30歳から34歳の未婚女性でセックス経験のない割合は23・8%だった。要は、30代前半で独自の男性と助成は、4人に一人は童貞なのだ。
(中略)
やはり若者のセックス離れが進んでいるのは本当なのだろうか。
しかし統計を見えるときの基本は過去と比べることである。日本性教育協会の調査を見てみると、大学生のセックス経験率は確かに2005年と比べれば下がっているのだが、バブルが始まりかけていた1980年代後半のほうが今よりも経験率は低い。
1987年の男子大学生のセックス経験率は46・5%、それより前の1981年では32・6%、1974年にいたってはわずか23・1%だった。昔の若者のほうが、今と比べればはるかにセックスをしていなかったのである。同様に高校生のセックス経験率も昔のほうが低い。
p128・129
このように一見根拠のあるような数字を上げて指摘しているが、同じく社会学者の宮台真司氏の話を聞いていると古市氏のこのような指摘はいささか疑問である。
わしも体感的には昔よりも今のほうがやはり若者のセックス離れは加速していると感じているが真相はどうなんだろうか?
重要なのは、今よりも若者がセックスをしていなかった時代のほうが、今よりも子どもの数が多かったし、出生率も高かったということである。
1974年には大学生の17%しかセックス経験がなかったが、当時は第二次ベビーブームの真っ最中。一年で約200万人の赤ちゃんが産まれていたし、合計特殊出生率も2を超えていた。
さすがにバブル期にはその頃より子どもの数は減るが、それでも1987年には135万人の子どもが産まれ、合計特殊出生率も1・67だった。当時の未婚の20代の童貞率は36・5%、処女率は59・0%で今よりも高い(2010年は男子32・8%、女子34・7%)。
そして昔よりはセックスをする若者が増えているはずの現代。一年間の出生数は2014年はついに100万人にまで減った。
「草食男子が増えたから子どもが減った」という説明は、まるっきりの嘘だということがわかる。
あたり前だが、セックスを何回もしたところで一生のうちに女性が産める子どもの数は限られているし、コンドームやピルなど様々な避妊法がある時代に性欲と子どもの数が直接的に関係しているわけがない。
僕が知っている夫婦は「そういう気分になれないから」と、体外受精で子どもを産んでいた。不妊治療を受けることは当たり前になりつつある。
「セックスをすること」と「子どもを持つこと」はイコールではないのだ。
p142・143
よく考えてみれば、この避妊の意識が浸透し、セックス経験の低年齢化を起こしている現在において、「セックスをすること」と「子どもを持つこと」はイコールではないという言葉はそのとおり。
では、なぜ若者が子供を産まないかというと、答えは単純。
金がないからである。デフレだからである。
日本では、子供が生まれても働き続ける女性の割合が未だに少ないが、実はそれは相当な生涯賃金の損失になっているというのだ。
たとえば年収350万円だとしても、出産後25年間働き続ければ、退職金や年金をあわせて約1億円の収入になる。女性が大卒で、もっと条件のいい会社に勤めていれば、この金額は2億円以上になる可能性がある。
一方、夫に対して「今より2億円多く稼いで」というのは、至難の業だ。
「私が内助の功で旦那を支える」という人がいるかも知れないが、夫の生涯賃金を2億上げるのはそれはもう一大プロジェクトだ。
それよりも、自分も働いて男女共働きになれば、世帯の生涯賃金は確実に上がる(もちろん、そのためには男性が育児・家事を積極的に関わるのが必須だ)結婚して男女がともに働くことは「最大の保険であり、最大の金融商品だ」と瀬地山さんは言うのである。
(中略)
同時に瀬地山さんは、「結婚はゴール」という幻想に対しても突っ込みを入れる。
瀬地山さん曰く、結婚を「永久就職」と呼ぶのは、「倒産率3割の会社に入って喜んでいるようなもの」だ。
厚生労働省の調べによると、現在の日本は結婚しても3組に1組が離婚する時代だ。「もし週刊誌などで「倒産確率3割」と噂されている会社に入れて喜ぶ人はいないだろう。互いにリスクヘッジのためにも、やはり男女共働きのほうが合理的」と瀬地山さんはいう。
p155・156
年収350万円でも25年働けば1億円以上の収入になり、女性に能力があって「条件のよい会社に勤めれば2億円」の収入になる。
つまり専業主婦が増えれば、国はその分だけ経済的マイナスを被ることになると氏は指摘する。
そりゃ確かにそうなんだが、それでもデフレが解消すればこんな問題はなくなるし、それでいて女性の働く時間を増やしましょうなんて安倍政権がいくらやってもデフレのままでは経済はよくならない。消費も増えない。そこんところがわかっていないようである。
日本は、世界的に見ても若者や子育て世代に、ほとんどお金を使っていない国だ。
OECD諸国と比べると、高齢者向けの社会保障支出は「平均なみ」なのだが、現役世代向けの社会保障支出が「平均より全然下」ということがわかっている。
要するに、高齢者に対する介護や医療にはきちんとお金を出しているのに、この本で散々見てきた通り、子育てや育児に対する国からの支援が本当に少ないということだ。
就学前の子供には年間約100万円しか支出されてないのに、100歳の高齢者に年間約500万円が支出されているという試算もある。
もちろん、誰もが高齢者になるのだから、安心して老後を迎えられる国を作ることには反対しない。
しかし、高齢者の生活のために現役世代の生活が犠牲にされるのも違うだろう。
そして当然ながら、現役世代に対する社会保障支出が多い国ほど、出生率が高くなることがわかっている。
p175
「就学前の子供には年間約100万円しか支出されてないのに、100歳の高齢者に年間約500万円が支出されているという試算もある。」
これはどう考えてもおかしな話である。
でもそれをいうなら国が緊縮財政を続けているから、いまの苦しい状況があるのだろう。
だったら自国通貨建ての借金で国は破綻しないのだから、さっさと国が緊縮財政をやめて積極財政に切り替え、消費増税を凍結して医療や福祉・インフラなど様々なところに投資をすればすむだけの話である。
仕事が増え、賃金が上がり、誰もが消費する社会になれば自ずと家族を作ろうとするものである。
本書では「保育園義務教育化」をして女性の働く時間を増やし、さらに子供の教育にお金を投資すれば待機児童などの問題は解決すると述べているが、それよりもまずはデフレから脱却し、消費増税などは廃止して国民の消費を喚起するほうが先ではないだろうか?
デフレが終わらなければ、氏の説く持論はまさに絵に書いた餅となることだろう。
良いところ
あらすじ
本書では少子化・待機児童・教育格差といった日本の構造的問題に対して「保育園を義務教育化する」ことで根本的な改革を目指すべきだという提言がなされる。古市は「育児=家庭」という常識に疑問を投げかけ、むしろ国家が子どもの成長に早期から関与することが平等と発達の機会につながると主張する。また現行の保育政策が母親の無償労働に依存している実態や保育園不足が女性のキャリアを阻んでいる現状も批判的に分析。さらに「親の責任」とされる領域を、社会全体で支える方向へシフトさせる必要性を説く。
著者の文体は軽快で挑発的だが、論理的裏付けと事例提示を欠かさず、読者に多角的な視点を提供する構成となっている。
では以下に良いところを挙げていこう!
社会制度の根本を問う視点
古市は単に保育園の数や制度を改善すべきという議論にとどまらず「育児とは誰の責任か」という本質的問いを投げかける。国家と家族の境界を再定義しようとする試みは、日本社会の保守的な価値観に挑戦する知的アプローチであり、単なる福祉論を超えている。
読みやすいが鋭い文体
内容は重いが語り口は軽妙で読みやすい。煽情的な見出しや例え話を用いながらも、論旨は一貫しており読者の関心を引きつけながら思考の深層へと誘導していく。社会派テーマの入門としても優れている。
実態とデータに基づく説得力
議論は空論ではなく待機児童数、保育士不足、育児とキャリアの両立といったデータや実例に基づいて進められる。特に女性の社会進出における制度的障壁の描写はリアリティがあり、多くの読者が現実との接点を見出せる内容である。
早期乳幼児教育の大切さ
気になった方はこちらからどうぞ
悪いところ
では以下に悪いところ挙げていこう。
提案の具体性に欠ける
「保育園義務教育化」という強いフレーズに比べて、実際の制度設計については具体性に乏しい。現場の声や行政手続きへの言及が少なく、理想論に感じられる部分もある。
保守層との断絶を深める恐れ
価値観を問い直す内容であるがゆえに家庭重視や伝統的子育て観に立つ読者との対話的姿勢が弱い。理解ではなく対立を生むリスクがある。
育児の「幸福感」を軽視
育児を合理的・制度的な視点でのみ捉える傾向があり、子育ての情緒的な側面や親子関係の温かみへの配慮が乏しい。人間味の薄さを感じる読者もいるだろう。
そこらへんは好みだろうけど、気にならないヤツは気にならないだろうな。

まとめ
こんな人におすすめ!
- 現代育児制度に違和感を持っている親世代
- 社会政策・教育政策に関心のある学生や研究者
- 子どもを持つかどうか迷っている若者層
『保育園義務教育化』は、保育制度を「教育」として国家が担うべきだという提言を通して、少子化・女性活躍・家庭観といった複雑な社会課題を論じる意欲作である。提案の斬新さはもちろんだが、本書の本質は「既存の常識を疑う力」にある。育児を家族のみに任せる社会構造を変革しようとする視座は、読者に強烈な思考の揺さぶりを与えるだろう。
制度の限界を知るすべての人にとって本書は議論の起点となる1冊である。

古い常識に囚われては未来は築けぬのう。読んでみるとよいかもしれんなw