
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミはポール・オースターは好きかい?
なあ、あの映画監督って本当にいたのか?幻じゃねーの?


ふむ、それが『幻影の書』の巧妙さなのじゃ
読んでるうちに現実と小説が混ざってきてさ、頭おかしくなりそうだったぞ


それがオースターの術じゃ。読者に虚構の迷宮を歩かせるのじゃよ。
てか、途中から誰が語ってるのかも怪しくなるし…マジでやばい本だろ

\ ココがポイント!/

『幻影の書』は、ポール・オースターが到達した文学的“迷宮”の極地なのじゃ!!
物語は家族を失った語り手が伝説的な無声映画作家へと惹かれていく追跡譚だが、読み進めるほどに現実と虚構の境界が曖昧になり、やがて物語そのものの正体が揺らいでいく。喪失、記憶、再生といったテーマが複雑に絡み合い、読者は言語の罠に巻き込まれていく。ページを閉じた後にも物語が残像のように焼きつく。
簡単に読める本ではないが人生観が変わるほどの読書体験が得られる一冊である。
幻影の書
「幻影の書」を読んだ。
なんとも味わい深く、それでいてここで語りにくい本である。
では今回の本はどういった作品なのだろう?
一言で表すとまさしく「幻影」といっていいだろう。
ポール・オースターの作品に一概に共通することだが、彼の描く小説の物語性にはいつも「幻想」の様子が色濃く反映されているように思う。
今回はその印象がさらに強くなり、「幻影」と言っても良いところまで高められているような気がした。
そう、この本は読んでもなにも無いのである。
なにも無いとは「面白くない」ということではない。
無内容ということとも違う。「面白い」には「面白い」。
しかし、ただ単純に、「面白かった」で語り終えてしまえるような物語ではないということだ。(またこの記事を読んでいる読者も鼻白みモノだろう)
この作品があまりにも荒唐無稽・複雑怪奇な運命に富んでいて、読者はまるで物語のヘクター・マンと同じく、その数奇でグロテスクな人生に翻弄されてしまい、読後その物語を上手く飲み込めないのだ。
まるで失語症のように、今見てきたこの物語を他の言語に移し替えて人に伝えることが困難な物語であると言っていいだろう。
ええいっ!頭のなかがごちゃごちゃしてきたwww
見てきたと言えども語れない
まずこの作品の重要なモチーフが「映画」であること。
この物語は映画好きが好じてポール・オースターが作成した架空の「映画」を元に構成されている小説だ。
それはまさしく「幻影」そのもの。その物語は詳しくはここでは述べられない。
ただ一言言わせて貰えれば、
見てきたといえども語れない。
そんな「物語」である。
翻訳者・柴田元幸氏の空白
その証拠にこの本の翻訳者である柴田元幸氏も、訳者あとがきであまりこの本の内容について深く触れてはいない。
正直いってわしはこの柴田元幸さんの訳者あとがきを毎回楽しみに読んでいる読者の一人である。
毎回物語を読み終えた後に、翻訳者である柴田さんが何を思い、何を語るか、その文章を読むことが我々読者に今くぐり抜けてきた物語に対する一つのヒントを与えてくれるからだ。そうした柴田さんの解説が毎回必ず我々を物語の非日常性から日常へと救い出してくれているような気がしていた。
しかし、今回に限ってそれはない。
少なくともあとがきで物語に対する具体的なことを語られていない。
いや、語ってはいないのではない。語れないのだ。
この感じは、まるでガルシア=マルケスの「百年の孤独」や、村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」に通じるものがあると個人的には思う。
その物語自体が鬱蒼とした現象で絡みあい、一言でいま見てきたことを言い表すことを拒否しているような複雑な構造になっているからである。
故に言葉にすることがあまり有効なことだとは思えない。
壮大な旅から帰ってきて、どっと疲れて今起こったことはなんだったのか?と重たい頭を引きずりながら考えるようなもので、それは読後やるにはいささかしんどい。
見てきたといえども語れない。
まさしくそれは「幻影」なのである。
今、わしが見てきた物語は「幻影」だったのだ。そんな奥深い物語性を本書は備えている。
秋の夜長にそんな幻想的な物語に耽ってみるのはどうだろうか?
良いところ
あらすじ
語り手のデヴィッド・ジマーは、飛行機事故で妻子を亡くし、生きる意味を失う。やがて彼は、偶然目にした無声映画に心を奪われ、監督であり俳優でもあった幻の人物ヘクター・マンの作品を調査し始める。ヘクターはかつて突然姿を消した伝説の映画人。彼のフィルモグラフィーを追ううち、デヴィッドは次第に深い謎へと引きずり込まれる。物語はヘクターの過去、彼を取り巻く人々の運命、そしてデヴィッド自身の内面へと収束していく。喪失と創作、記憶と虚構が交錯し、読者もまた幻の物語の住人となる。
では以下に良いところを挙げていこう!
二重構造の語りが圧巻
『幻影の書』は、語り手であるジマーの物語と彼が追うヘクター・マンの物語が交互に展開する。
まるで映画のモンタージュのように構成されており、読者は物語の層を横断しながら読み進めることになる。特にヘクターの10本の映画それぞれが独立した物語でありながら、本筋と密接にリンクしている点は文学的な技巧の極みである。
喪失と救済の物語として普遍性がある
ジマーの喪失体験は深く読者の心に静かに入り込んでくる。
愛する者を失い、自分も消えたような存在になる。その痛みが、ヘクター・マンの物語と重なりながら、少しずつ再生へと導かれていく構造は、ただのミステリーや文学以上の感動を残す。
映像と文学の架け橋となる描写力
オースターは映像的な筆致で小説の中に“見える映画”を描く。
とりわけヘクターの映画のシーン描写は小説とは思えないほど立体的であり、まるでスクリーンが頭の中で上映されているかのよう。文字の中に映画を封じ込めた稀有な作家性が光る。
気になった方はこちらからどうぞ
悪いところ
では以下に悪いところ挙げていこう。
文体がやや重く、読み手を選ぶ
翻訳調の文体がやや重く、普段から文学作品を読み慣れていない読者には読みづらく感じる部分もある。特に前半はペースが遅く、読むのに集中力を要する。
映画への知識があるとより楽しめる
物語の中で無声映画や1920年代の映画史が多数登場するため、背景知識があると深く味わえる。ただし、それがないと細部の面白さに気づきにくい場面もある。
一部の伏線が回収されない
意図的に謎を残す構成だが、それが読後感にモヤモヤを与える場合もある。特にラストの“曖昧さ”に対して、読者によっては満足よりも不安を覚えることがある。
そこらへんは好みだろうけど、気にならないヤツは気にならないだろうな。

まとめ
こんな人におすすめ!
- 現実と虚構の境界に惹かれる読書家
- 心理描写の深い文学を求めている人
- 映画と小説のクロスオーバーに興味がある人
『幻影の書』は、単なるフィクションではなく「物語とは何か」を問い直すための一冊だ。喪失から始まり、追跡、回想、そして語りのトリックが織りなす迷宮構造。読者はジマーと共に、過去の影を追い、やがて自身の感情に向き合う旅へと巻き込まれていく。読後には、現実と虚構の境界が少し曖昧になる感覚さえ残る。これはただの読書ではなく、心の深層に触れる“体験”だ。
深い読書体験を求める人には、絶対に外せない一冊と言える。!

言葉とは幻影の魔術なのじゃ!