こんちわ、おいさんだよ。
キミは「易」を信じるかい?
エキって……
易者の「易」か?
ボクは機関車が好きだよ!
ポポポ!
バカモノ!電車の駅ではない!
今回は読んでためになる易学の話なのじゃ!
易って占いだろ?なんとなく信じがたいんだよなぁ・・・
ところがじゃ、易って以外と深いものなんだぞ!
そこで今回は「易と健康〈上〉易とはなにか」を紹介したいと思うのじゃ!
前回まではこちら
幻影について語ってみたよ。という話(*´ω`*)
易と健康
正直言ってそんなに興味はなかった。
だってなんとなく当たらなそうだし、素人がやってみても難しそうだったからである。しかし本書を読んでみてその考えが覆った。
何の話か?「易」の話である。
今回紹介する「易と健康」は、安岡正篤氏によって上下二巻に綴られた「易」に関する入門書。
しかし、入門書といってもそんじょそこらの占いの本ではない。
本書は占い方だけ解説した易のやり方を綴った本ではなく、とても3、40年も前に書かれた易に関する本だとは思えないような現代にも通じる奥深い話を交えて、易とはなにか?ということに多く言及された本なのである。
では、そもそも易って一体何なんだろう?
まずはそこから話を進めていこう。
変化することが易
「易」というものを一言でいうと「化」である。
これはつまり「造化」の「化」
「六十にして六十化す」というように、いくつになっても諦めずに変わり続けていくこと。六十になったら六十になっただけ、なお造化していく。
単なる変化ではなく、創造進化していく、造化していく、これが易の妙諦、易の真理なのだそうな。
また、易で大切なことは変易、簡易、不易の三つだ。
この本とは別に、台湾を民主化へと導いた李登輝氏の著書「台湾の主張」におもしろい記述があった。
そもそも「易」とは実は時間の方程式であり、変易、簡易、不易の三つの意義で説明することができる。
もし仏教の「三法印」と比較すれば、「変易」とは諸行無常であり、「簡易」とは諸法無我であり、「不易」は涅槃静寂を意味する。
わかりやすくいえば、
「時間は絶え間なく変化し、万物万象もこれに従い変動して停止しない。ところが、この無常の変化のプロセスの中に変わらざる真理が存在する。
そしてこの不変の本質を把握し、本来の変化を予測しようとすれば、必ず誠実な魂が必要とされる」
ということである。
なるほど、実にわかりやすいw
このように易はこの変わり続ける世の中を、自分の身の回りの生活に合わせながら絶えず自分の進むべく「道」を示してくれる「学問」であると解釈することもできるだろう。
そう、あくまで「学問」であって「占い」ではない。
そしてここが肝心なのだが「易」によって出た自分の運命は、宿命(逃れられない運命)として諦めず、どんどん変えていくことが重要だと本書は指摘する。
これを立命という。
立命。つまり自分の運は自分で切り開く努力が大事だということだ。
安岡先生もこの本で「街などで見かける売占、易者のように相手も運命を占って」当たった、当たらないと、まるで脅すようにお金を貰っているようじゃダメだ。易の本質はそんなところにない、と仰っている。
易の本質は「立命」にある。
自分の運命を変えられないものだと自分の運命を宿命と捉え、創意、工夫を諦めてはダメなのだ。宿命論者ではなく立命論者になろうということだ。
だから、師である安岡正篤氏の名を借りて、悪どく商売している細木数子なんかはダメな例の典型だろう。
安岡正篤氏も「金もうけの為に易をやるなんて、つまらんからやらんけど、もしやっていたら、しこたま儲けられていたんだろうなw」と仰っている。
すごい(;´∀`)
もし安岡正篤が占いを専門でやっていたとしたら、細木数子なんかよりも、もっとすごい占い師になっていたんだろうねw(*´∀`*)
易は無の学問
最後に、易について安岡先生はこう仰っている。
味でもそうでありまして、甘いなんて味は、(中略)これは一番つまらない。
甘いというものがやがて渋いとなり、苦いとなる、というところが本当の味というものがある。(中略)
結局、味わいの至れるものは無の味だ。無の味とは何かといえば、水だということになる。
そこで、君子の交わりは淡として水の如し。(中略)
それじゃつまらんじゃありませんか、何も味がない、というふうにいう人がよくあるんですけれども、そうではないんです。至れる味わいというのは、甘いとか渋いとか苦いとかではなく、何とも言えない無だ。
君子の交わりは淡として水の如し。これは水くさいというものではない。水くさいものなら、君子の交わりはつまらん。そうではなく、いうにいえない味だと。無の味わいだ。それで初めて意味がわかる。
現に、人間は死に臨んで「水をくれ」というんで、死に臨んで「砂糖をくれ」という奴もない。(中略)
それほど水というものは、本当の味があるものです。
易はそういう意味において、非常に無の味、無の学問といっていいんです。
なるほど、易は学べば学ぶほどその妙味が出てくる奥深い哲学で、「易」というものは年を取れば取るほどおもしろいものらしい。
年を重ねた上で易を読むと、この上なく奥深いものがあるんだと安岡先生は言っている。
皆さんも試しに本書を覗いてみてはいかがだろう?
これを読めば、街で見かける売占が馬鹿らしくなるかもしれない。