
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミは「大いなる眠り」は好きかい?
なあ、「大いなる眠り」って要するに昔の探偵モノだろ?


村上春樹の訳を読んでもそう思うなら、お前の心はまだ眠っているのじゃ!
はぁ…なんか訳文だけで雰囲気あるとか聞いたけど、そんな違うのかよ?


違うどころか、チャンドラーの文体に村上訳が新たな風を吹き込んでおるのじゃ。
はぁーん、そんなに違うもんか?

\ ココがポイント!/

『大いなる眠り』村上春樹訳版は、原作の魂を損なうことなく、むしろその輪郭をより鮮やかに描き出しているのじゃ!!
レイモンド・チャンドラーの硬質で無駄のない文体に、村上春樹の洗練された訳語選びが絶妙にマッチしているのだ。主人公・フィリップ・マーロウの孤独と美学が、現代の読者にとっても共鳴しやすいものとして立ち現れる。翻訳文学は、往々にして“重訳”と化し、読み手を遠ざけるが、本作においてはむしろ原文よりも読みやすく、エモーショナルな体験が得られるだろう。ハードボイルドの形式美に惹かれる者、言葉の力に震えたい者、村上春樹の“別の顔”を知りたい者にとって、この一冊は間違いなく「読むべき書」である。
大いなる眠り
日本文学はあまり読んだことがない。
わしが読む小説は海外小説がほとんどだった。
理由は単純におもしろいからw
以前はラノベやら時代小説やら夏目漱石やらと色々日本の文学は読んできた。
それでも今ではやはり外国文学の方をたくさん読みたいという気持ちの方が強い。
そんな中、初めてレイモンド・チャンドラーを読んだのは村上春樹訳・ロング・グッドバイだった。
もともと、そんなにハードボイルド小説に興味があったわけじゃない。しいて言うなら日本のハードボイルド作家・北方謙三を愛読しているくらいだった。
だがあるとき村上春樹にハマり、彼の著作はほとんど読みあさった。
その後、今度は彼が訳した本も読んでみようと思い、様々な作家の邦訳を読みあさることにした。
レイモンド・カーヴァー、
ジョン・アーヴィング、
トルーマン・カポーティ、
トム・オブライエン、
J・D・サリンジャー
おかげで随分外国文学の作家に詳しくなったw
その中でもお気に入りはレイモンド・チャンドラーだった。
レイモンド・チャンドラーはタフガイの文学
レイモンド・チャンドラーの文章にわしが抱いた印象は、とにかく文章が難しい。
チャンドラーの文章は難しい。
今までたくさんの本を読んできたわしでさえ、いささか疲弊してしまうほどに、彼の文体は厚い。
ワシは週に本を5〜10冊くらい読むが、それを一気に読もうとすると一冊あたり、だいたい50ページくらいが一日の読む分量になる。
しかし、このチャンドラーの「大いなる眠り」は30ページを読むのがやっとなくらいで、頑張ってたくさん読み通そうとすると頭が痛くなるw
それぐらい、彼の文体は厚く、重く、完璧な文体なのだ。
完璧な文体で書かれた本というものは、ときに読者を激しく消耗させる。そして無理して読み続けていくと、頭が痛くなるのだ。
「大いなる眠り」を読んでいるとその文体からは、喉を焼き、肌をひりつかせ、乾いた硝煙(ガンスモーク)の匂いが鼻孔をかすめる、そんなザラッとした感触をさせるような小説なのだ。
そのチャンドラー独特の文体は、読者であるワシを疲弊させる。
これは必ずしもわしだけの話ではないだろう。
しかしだからといって、彼の小説が堅苦しいつまらない小説ということではない。
チャンドラーの作品と言ったら、あんなパルプフィクション出身の小説家なんて文学ではない!というような言い方をする者もいるが、わしはそうとは思わない。
掲載していた雑誌がどうであれ、チャンドラーが書いていた小説が素晴らしいことには変わりはない。
わしは素直にそんなチャンドラーの小説を素晴らしいものだと思っている。
事実、ある年代の人にとってはレイモンド・チャンドラーといえば、一種のステータスとして厚く支持されているのも、その文学が愛されているからであって、そうした熱烈な支持が、彼の文学界での位置を不動のものにしている所以だろう。
そんなチャンドラーの作品の中で、実は村上春樹氏が訳したものでわしが好きな作品は「リトル・シスター」 だ。
人によってはチャンドラー作品といえば、「ロング・グッドバイ」を押してくるかもしれないが、「リトル・シスター」はチャンドラー作品の中で物語がわかりやすく、なおかつ可愛らしい女の子(ヒロイン)とフィリップ・マーロウとのやりとりが微笑ましい。
それが実に印象的で、わしは一読して大好きな作品になってしまった。
今回の「大いなる眠り」は、作品として個人的にはそれに劣るような気がする。
展開としては、物語の冒頭から異常な空気を醸し出している。
まるで子供のように男を見ると体を求めてしまうカーメンや、その裏で行われている怪しげなビジネスの臭いなど、どこまでもハードで乾いた印象を与えるが、「リトル・シスター」に見られるようなチャーミングな展開は期待できない。
それでいて「ロング・グッドバイ」ほどの乾いた哀しみも全編に渡ってそこにはないように思えた。
一方で、確かに良く言われるように、チャンドラーの探偵小説にはいささか無理なプロットやトリックの部分で無理がないわけではない。
タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない
しかし何度もいうが、だからと言ってチャンドラーが描くフィリップ・マーロウの物語がつまらないわけではない。
むしろその筆勢は色あせることなく、読者をわくわくさせるような展開は健在である。
その魅力は読書をタフガイに錯覚させる麻薬のような力がある。
この作品は、そうしたチャンドラー節に彩られていると言っても過言ではないだろう。
本書は、そうしたしっかりとした「力」をもつ、味わい深いウイスキーのような良質のハードボイルド小説であるのだ。
読めば多くの人びともフィリップ・マーロウが織りなすタフガイの世界に潜り込むことができるだろう。
今度は、清水俊二訳のモノも読んでみよう(^^)
良いところ
あらすじ
富豪スターンウッド将軍の依頼で、私立探偵フィリップ・マーロウが動き出す。
次女カルメンが賭博師に脅されているというのが発端だが、マーロウが探っていくうちに事件は複雑な迷路を見せ始める。次第に浮かび上がるのは、長女ヴィヴィアンの秘密、失踪した義兄、連鎖する殺人──すべては一見無関係なようで、やがてひとつの大きな「眠り」へとつながっていく。フィリップ・マーロウは拳銃も使えば皮肉も吐くが、決して弱者を見捨てず、自らのルールに忠実であろうとする。彼が追い求めるのは、真実だけではない。人間としての誇りと矜持を守るための孤独な戦いなのだ。
本作は、単なるミステリや探偵小説の枠を超え、読者に“正義とは何か”を問いかけてくる。
では以下に良いところを挙げていこう!
村上春樹の訳が原作に新たな息吹を与えている
英語で読むと古典的で難解に感じるチャンドラーの文章を村上春樹は自然体の日本語へと変換している。
直訳調に陥らず、リズム感を保ちつつ現代的な表現を選んでおり、読者に違和感を抱かせない。この訳文が生み出す流麗さは、まるでマーロウの独白をすぐ隣で聞いているような臨場感を与えてくれる。
セリフ回しの鋭さと美しさ
登場人物たちの言葉は乾いていて、鋭く、どこか哀しい。
マーロウのセリフは特に秀逸で、「酒は心を濡らさない。記憶を濡らすだけだ」といった名言に満ちている。村上訳の力により、それらのセリフは刺さる言葉として日本語読者の心に届く。
小説を読む楽しさとは、こうした一文に出会うことだと再認識させてくれる。
ハードボイルドの哲学が現代に通じる
この物語には、暴力や金ではなく、信念によって動く男が描かれている。
マーロウは嘘を見抜き、権力に抗い、正義に殉じる。それは現代においても失われていない“人間らしさ”の象徴であり、だからこそ2020年代の読者にもリアルに響く。
翻訳というフィルターを通しながらも、その魂は全くブレていない。
気になった方はこちらからどうぞ
悪いところ
では次に悪いところを挙げていこう。
登場人物の多さと関係の複雑さ
序盤から数多くのキャラクターが登場し、それぞれの背景や思惑が絡み合ってくる。集中力が必要であり、気を抜くと人間関係が分からなくなる読者も多いだろう。
ストーリーの展開が唐突に感じられる箇所がある
原作自体が、緻密なプロットというよりも雰囲気とキャラクターで引っ張るタイプの小説であるため、伏線や回収の部分でややあいまいに感じる読者もいるはずだ。
翻訳に村上春樹“らしさ”がにじみすぎていると感じる人も
ファンにとっては魅力だが、チャンドラーの原風景をストイックに楽しみたい読者には、村上節が前に出すぎていると映るかもしれない。好みの分かれるところである。
そこらへんは好みだろうけど、気にならないヤツは気にならないだろうな。

まとめ
こんな人におすすめ!
- ハードボイルド小説に初めて触れる人
- 村上春樹の文体を他ジャンルで味わいたい人
- 美しくも乾いたセリフが好きな人
『大いなる眠り』村上春樹訳は、原作の硬派な魅力を損なうことなく、むしろ日本語のリズムと美しさを加えた「進化系ハードボイルド」である。
探偵小説という枠組みを超え、読者に言葉の美学と人生哲学を突きつけてくる。村上訳によって浮かび上がるマーロウの輪郭は、より現代的でありながら、普遍的なヒーロー像として完成されている。読み進めるたびにセリフが刺さり、思わずページに印をつけたくなる
──そんな体験ができる一冊だ。

言葉には力があるのじゃ。村上訳でハードボイルドに酔いしれるのじゃ!