
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミはコーマック・マッカーシーを読んだことはあるか?
おい、これ読んでみたけど、
こんなグロい小説、読む意味あんのかよ!暴力ばっかじゃねーか?


わしも最初はそう思っとったのじゃ。
だが、マッカーシーの狙いは暴力そのものではないのじゃ。
じゃあ何なんだよ?意味深なメタファーとか?


ふふ、それもじゃが、本質は人間の“根源的な闇”に光を当てることなのじゃ
根源的な闇って…語り口が重々しいな。

\ ココがポイント!/

『ブラッド・メリディアン』は、暴力を描くだけでなく、暴力そのものに意味を見出そうとする強烈な文学なのじゃ!!
舞台は19世紀中期のアメリカ南西部―テキサス~メキシコ国境地帯。主人公である「キッド」は、剥製猟師集団“グラントン一味”に加わり、史実に基づく苛烈な血の狂騒に巻き込まれていく。なかでも暗黒の哲学者・Judge Holden(日本語訳・判事)は、暴力を神格化し、「戦争こそが神なり」と宣言する。その言葉は世界観を根底から揺るがす一撃となる。
マッカーシーはこの作品で、退廃と殺戮を通して「人間とは何か」を問う。歴史的裏付けと詩的文体の融合は圧巻であり、暴力が日常と化した西部を背景に、文明の仮面は紙のように薄いことを示す。暴力の描写は凄惨でありながらも、ただの暴力礼賛には終わらず、むしろ読者に倫理と生の曖昧さを突きつける。
読後、多くの者は胸に深い余韻と共に言葉にならない感情を抱く。本書は心身ともに挑発される体験であり、文学が持つ暴力性と倫理の両立を極限まで突き詰めた傑作である。
ブラッド・メリディアン
軽い気持ちで読んでみた。
本書は「村上さんのところ」で村上氏が紹介していた本である。
これはもう読んでびっくり!というかげっそりw
ひたすらアメリカで行われたネイティブ・アメリカン大虐殺の本だったのだ。まさかここまで重い内容とは……(;´∀`)
この本はとにかく読んでいてページが進まない。
それはコーマック・マッカーシーの文体が、重く無駄ありまくりなハードボイルドな文章でありながら、ほとんど句読点やカギ括弧なしにずっと書かれているので、読んでいて非情にリズムが取りにくく、ずっと文章を目で追っていると頭がこんがらがってくる。
これはきっと原文に忠実な訳なんだろうが、いかんせん独特の言い回し方がしんどくなる時がある。
おまけに書かれている内容はといえば、もう虐殺・暴力・血の雨あられであることも関係していると思う。
そんな血生臭さいことのオンパレードである本書について、ちょっくら語ってみるとしよう
少年とグラントン団の虐殺の日々
14歳で家を出た「少年」と呼ばれる主人公は、各地を転々としながら暴力にまみれた生活を続ける。
ある時出会った判事と呼ばれる身長2メートルを超える全身に毛という毛が一本もない禿頭の男に出会い、少年はグラントン率いるインディアン討伐隊に加わることとなる。グラントン団はインディアン相手に大量の虐殺と頭皮狩りを行いつつ、全米を欲望のままに暴力をふるう旅を各地で繰り返していく。
そしてやがて「少年」もそうした蛮行へと繰り出す男となり・・・?というお話。
読んでいて非常に気持ちの暗くなる小説である。
この小説の舞台はいわゆる西部劇と呼ばれる時代に属すのだが、クリント・イーストウッドやその他の正義のガンマンが活躍するようなスカッとした西部劇とは一線を画している。
それはアメリカで実際に行われていたインディアン虐殺と米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)という血と暴力にまみれた無慈悲な時代をリアルに描いているからだ。
いわゆる歴史修正主義の西部劇というものらしいが、歴史修正主義といったら自らの歴史をいいように「都合よく変えていくもの」と思っていたが、この小説は過去にアメリカが行ってきたインディアン虐殺という蛮行という歴史を直視しないアメリカに対して、自分たちの祖先がどのような残虐なことを行って来たかということを冷徹にそして善悪の判断なしに描ききった小説である。
このような物語を書くというのはかなり勇気のいることだと思うし、こうした歴史を直に見るということは今までのアメリカ文学の流れでありえなかったのではないだろうか?
人の命が石ころのようだった時代
小説中ではとにかく人がよく死ぬ。
もうこの物語において人が死ぬなんてことは、なんてことのない当たり前の事実である。
人の生命は地球よりも重いなんていう言葉はどこ吹く風と言わんばかりに、ここで描かれる過酷な運命に翻弄される人たちは実に残酷なまでに無残に殺され尽くしていく。
そう、この物語に出てくる白人やちは人を殺すなんてなんとも思わない。
ましてや異教徒であるインディアンなど明白な運命(マニフェスト・デスティニー)のスローガンの元では虫ケラ同然なのである。
故にどんどんインディアンが死んでいく。
それも頭皮を剥がれるという無残な姿で。
グラントン団の少尉であるグラントンという男は、また憎いほど人を殺していく。
この、「人の生命なんてなんとも思っちゃいない」男と、判事と呼ばれた得体のしれない怪物の最恐コンビが、西部を横断しながらインディアンだけでなく善良な街の人や小さな赤ん坊まで何食わぬ顔で殺しまくっていく様は読んでいて胸クソが悪くなる!
この非情さ、恐るべきである。
ただこの物語の恐ろしいところは、あまりにも人が無情に殺戮されていくので、いつの間にか読んでいるこちら側も人が死んでいくことに対してなんの感情も抱かなくなってしまうのである。読み進めていくとただ目の前で起こる死を、当たり前のこととして受け入れてしまう自分に愕然としてしまう。
そう、読者はいつしか冷徹な死刑執行者・グラントンと同化してしまい、当時本当に起こっていた虐殺という蛮行をだだ普通のこととして慣れてしまうのである。
その導き役とも言ってよい男が判事という男だろう。
不気味な「判事」の圧倒的な存在感
判事と言うと男は一言で言うと、イカれている。
グラントン一味の中で唯一博学な彼が口にする言葉の数々は、当時の白人たちが有色人種に抱いていた偏見・差別的な感情は、読んでいるとあたかもそれが真実であるかのように読者を錯覚させながら巧みな理論として時折口に出される。彼が口にする言葉を読んでいると、強烈な拒否反応を抱きながら、いつの間にやら自分の中で抵抗感がなくなってくるのだ。
まるで軽いマインド・コントロールのように、判事が口にする言葉の数々が呪詛のように読者の頭に響き、気づかないうちに浸透していく。
つまり判事という男は、グラントンという無辜の民を平気で虐殺する者達と読者を同化させるための橋渡しの役としている存在しているのだ。
故に判事の不気味で圧倒的な存在感に、少年(と私たち読者)は抗うことができずに、いつの間にか判事やグラントンたち無法者たちと同じ存在になってしまっている。
そのへんのウマさは、
コーマック・マッカーシーの巧みな筆のなせる業なのだろう。
そうして筆者の筆の導かれるままにインディアンの死に対してわしら読者は無関心になってしまうのだ。
心の何処かで受け入れがたいはずの存在として判事という怪物を見ながら、わしら読者はいつの間にか判事と同じ存在になってしまう。
「ブラッド・メリディアン」
それはそんな恐ろしい力を秘めた物語なのである。
あなたは判事の恐ろしさから抜け出すことはできるだろうか?
良いところ
あらすじ
1849年、名前すらない“キッド”はテネシーを脱走し、砂漠と荒野を渡る旅に身を投じる。
revival集会で判事と出会い、その後グラントンの剥製猟師集団に加わる。彼らはアパッチ族やメキシコ人を襲い、毛皮ではなく「頭皮」を金のために収奪する。
猟師たちの行動は次第にエスカレートし、暴力は目的から快楽へと変貌する。判事の超自然的存在感は増し、一行に「戦争=神」の教義を植え付けていく。キッドは極度の殺戮に巻き込まれつつ、人間の本来の姿を目の当たりにし、内なる葛藤に苦しむ。
やがて暴力の連鎖に破綻が訪れ、一味は崩壊。キッドと判事の対峙が最後の鍵となるが、結末は明確な救いも罰も示さず、読者に深い余韻と不安を残す。
砂漠に満ちた血は洗われず、文明の虚構は剥がされたまま終幕する。
では以下に良いところを挙げていこう!
暴力を通じて人間本性を剥き出しにする描写力
『ブラッド・メリディアン』は暴力そのものを描くのではない。
暴力を媒介として、人間の根源的な野性、そして文明がいかに薄っぺらい仮面であるかを炙り出す。判事の「戦争こそ神である」という教義は、本作の核であり、読者に倫理と狂気の境界線を思い知らせる。マッカーシーの文体は砂漠の沈黙のごとく重く、暴力の静謐と惨劇を同時に映し出す。
史実と神話を織り交ぜた圧倒的リアリティ
剥製猟師グラントン一味は史実に基づく存在であり、Samuel Chamberlainの記録とマッカーシーの徹底した地理・歴史リサーチによって、砂漠の光景はまるで現場のように蘇る。そのうえで判事というほとんど超自然的な存在を配したことで、歴史の荒廃に神話的次元が付与された。
多層的主題構造と哲学的深み
本作は暴力、道徳、存在論、神話、権力構造など多岐にわたる主題を内包している。Gノーシス主義やニヒリズム、アポカリプティックな死の視座──多くの批評家がその深さに言及する。結果として、一読では到底理解し尽くせない重層的な構造となっており、再読のたびに異なる問いと対面することになる。
気になった方はこちらからどうぞ
悪いところ
では以下に悪いところ挙げていこう。
とにかく強烈すぎる暴力描写
本作は「暴力の宝庫」と称されるもので描写の凄惨さに圧倒される読者は少なくない。一部には「耐えられない」「読むのをやめた」という声もあるほど、閲覧注意レベルである。
文体が重厚すぎて読みづらい
マッカーシー特有の古英語調、無引用符の対話、神話風の描写スタイルは、一定読者にとっては心理的な障壁になる。「読みにくい」「意味が掴めない」という意見が多数。
結末が抽象的で救いがない
明確な救済も解答もないエンディングは人によっては「結局何も得られなかった」と感じる。また判事という超越的存在が主体化しているため、キッドの成長劇として読めず、「人物追従型の物語として印象が薄い」とする批判もある
そこらへんは好みだろうけど、気にならないヤツは気にならないだろうな。

まとめ
こんな人におすすめ!
- 暴力と倫理の境界を文学的に深く掘り下げたい者
- 歴史と神話を同時に感じる圧倒的リアリティを求める読者
- 重厚な文体や哲学的テーマに挑む読書経験を求める者
『ブラッド・メリディアン』は暴力と聖書的一語一語が混ざり合う重厚な西部劇を超えた作品である。
砂漠の血と文明の虚構を背景に、マッカーシーは人間の闇と倫理の不確定性を突きつける。それは読後に深い余韻と虚無感を残すが、同時に現代を生きる我々に「文明とは何か」「暴力とは何か」を再考させる。余計な救済を排した物語構成は、清々しくも痛烈だ。
本書は「面白い話」としての読書を超えて、文学や歴史、哲学との対話を求める読者にこそ読むべき一冊である。

砂漠に響く銃声と血の匂いの向こうに本当の人間の姿があるのじゃ。
『ブラッド・メリディアン』は救いを与えぬからこそ我々の心をえぐり、問いを残す。
覚悟して読み込むがよいのじゃ。