
ちわわ、ちわ~!おいさんだよ!
キミは日本の歴史を知っているかい?
また保守系の歴史本かよ。偏ってんだろ


まぁの。ある程度の偏りは仕方ないのじゃ。
でもよ、先の大戦を肯定するようなのは無理だろ?


色々賛否両論あるが、これも一つの見方という視点を持って眺めればいいじゃろう。
これは歴史修正主義なのか?検証していこう!
そもそも正しい歴史なんてものがあるのか?

\ ココがポイント!/

『国民の歴史』は、日本人が自国の歴史に対して持つべき「主体性」を再構築するために書かれた挑戦的な一冊なのじゃ!!
西尾幹二は戦後教育に蔓延する「自虐史観」を鋭く批判し、歴史とは単なる事実の羅列ではなく、国民が共有すべき“生きた精神の物語”であると主張する。本書は、学問的厳密さよりも思想的衝撃と覚醒を狙った構成となっており、読者に“考える”ことを強く促す。たとえ意見の相違があったとしても、日本の歴史をめぐる対話の起点となる価値は極めて高い。
歴史を学び直したい者、自国に対する見方を刷新したい者にとって、本書は単なる歴史書以上の意義を持つだろう。
国民の歴史
久しぶりにがっつり歴史を学んでしまった。
それにしても長かった。
7月の5日くらいから読んでいたのに読み終わったのが8月の20日だ。
それくらい分厚い本なんだけど長すぎる!
本書はいわゆる教科書的な歴史の書き方が全くされていないのはおもしろいのだけれどもど、もうちょっとコンパクトにしてほしい。文庫化してない単行本の体裁はある意味読み応えバツグンの百科事典並の大きさである。
著者は保守の重鎮・西尾幹二氏。
西尾氏といえば「新しい歴史教科書をつくる会」に参加した保守として有名だが、最近は天皇陛下の退位問題で知性の劣化を見せつけるような発言を繰り返していた。
そんな西尾氏が世間に蔓延する自虐史観を払拭するべく書き綴った壮大な労作である。
なので故に読むのが大変で本書も大変分厚いw
読んでいて苦労するのだがその分、読み応えのある内容になっている。
歴史とは結局のところ「伝説」である?
ところで、みなさんは歴史というものをどう捉えているだろうか?
そこであえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである。
「過去におけるいっさいの象徴である」というゲーテの言葉をまつまでもない。また、「いっさいの事象から神話の歴史として残るものは、つねに、結局のところ伝説である」というエルンスト・ベルトラムの、歴史と神話の秘儀をめぐる有名なテーゼが示すとおり、われわれは歴史の純粋事実そのものを完璧に、客観的に把握することはできない存在である。
過去についてわれわれが知り得るのは、過去に起こった象徴であり、比喩であるにとどまる。歴史はなにか過去のものの復元としては決して同意義ではない。
歴史は現代に生きるわれわれの側の新しい構成物である、というふうに考えるとしたら、どこか遠い過去に、外国が与えた絶対に動かぬ純粋事実を無原則に設定するのは間違いである。われわれは複数の諸事実のなかから真実を探り出し、再構成する権利を有しているからである。
「国民の歴史」
本書では西尾幹二氏はこのように言っている。
「われわれは歴史の純粋事実そのものを完璧に、客観的に把握することはできない存在」 というとおりに歴史というものはすでに過ぎ去ってしまった過去のものであるのだから、それを完璧に再構成しようとしてもどだい無理である。
しかし、だからといって自虐史観が良いわけではない。
そうした歴史はわし自身も学校で習った事があるが、非常につまらなく匂いのない記号めいた、読んでいて退屈な本という印象で終わってしまうものばかりだった。
だが、本書は「日本の歴史はじつはこのようなものだった!」と断定するような内容の本ではなく、様々な文献を参照しつつ、氏の鋭い知性によって様々な角度から定説となった歴史を紐解いていく。
そんな氏のスタンスを「歴史とはつまるところ伝説である」という言葉に、つまるところ現れているだろう。
歴史家クローチェは、誰がいつどこで何をしたとか、どんな事件がいつどこで起こったとか、単純明白な出来事だけを羅列してみても、それはせいぜい年代記にすぎない、いまだ歴史ではないと言っている。
彼の正確な言い方を借りると、これは「死んだ歴史」であり「歴史の屍」である。歴史に生きた人間の思考、経験、告白、行動力が多義的に溢れるように記録されていなければならない。
それで初めてわれわれがそこに自分の想像力を投げこんで、単に白紙にして資料の語るところに耳を傾けるのではなく、自分が史料とともに動き、呼吸し、感動し、歴史がその内側の声を発するのを待ってとらえることができるようになる、というのである。
「古事記」や「日本書紀」はそういう経過に十分に耐える
「自分が史料とともに動き、呼吸し、感動し、歴史がその内側の声を発するのを待ってとらえることができるようになる」とは、非常に感慨深い言葉である。
確かに歴史を人に語ったとしても一つの事象を巡って、人によっていろんな見方、解釈がある。その最たるものが戦前の大東亜戦争などの近現代史だろう。
だが、そうしたステレオタイプの自虐史観を教えられるのは仕方ないとしても、様々な史料にあたりながら別の角度からあの時代を見てみようとすることは重要だろう。
今まで当たり前と思われていた歴史の常識を、本書は様々な資料を元に疑問を呈している。
すべてを鵜呑みにできない部分はあるだろうが、日本の歴史の別の味方を丁寧に読み解いていくことは面白い知の発見であるように思う。
良いところ
あらすじ
『国民の歴史』は従来の戦後教育が描いてきた“加害者としての日本”という構図に異議を唱え、歴史の再評価を促す論考集である。特に近代以降の日本──明治維新、大東亜戦争、GHQによる戦後処理──について、国際的な視点や思想背景を織り交ぜながら再検討する姿勢が貫かれている。著者は日本が他国に比して特段に悪かったわけではなく、むしろ国民国家として誇るべき側面も多いと主張する。また歴史教育の空洞化に警鐘を鳴らし、“国家観の不在”が戦後日本を弱体化させた一因であると断ずる。
叙述は情熱的であり、事実の検証というよりは読者の「歴史観」に直接語りかける内容となっている。
では以下に良いところを挙げていこう!
歴史観の再構築を促す思想的挑発
本書は単なる歴史解説ではなく「歴史とは誰のためにあるのか」という根本的問いを突きつけてくる。戦後教育で刷り込まれた「加害者としての日本」像に対し、西尾は“語られなかった事実”や“抑圧された視点”を引き出し、読者に思考の自由を取り戻させる。その姿勢は極めて思想的であり、読者の歴史観を更新するきっかけとなるだろう。
特に「歴史に誇りを持つこと」が禁忌とされてきた風潮に疑問を投げかける点は現代的な意義も大きい。
戦後史の見直しに貴重な視点を提供
本書では戦後日本が“敗戦国として再教育された過程”を克明に分析しており、GHQの情報統制や検閲政策が、日本人の精神構造をどう変えてしまったかが示されている。これにより現在の歴史認識や政治的無関心の根源を理解するためのヒントが得られる。教科書に載らない“もうひとつの日本近代史”を知るには格好の資料である。
平易で情熱的な語り口
専門用語を多用せず、あくまで一般読者に向けた語り口で書かれている点が本書の魅力である。
文体はときに論争的でありながらも読者を突き放すことなく“あなたはどう思うか?”と問いかけてくる構成が秀逸である。知的刺激と読後の余韻を同時に味わえる、稀有な評論書である。
気になった方はこちらからどうぞ
悪いところ
では以下に悪いところ挙げていこう。
史実の裏付けがやや乏しい箇所もある
論調は力強いが学術的な裏付けや出典の明示が不足している章もあり、客観性に欠けるとの批判も免れない。思想としての魅力はあるが史実の検証を重視する読者には物足りなさを感じさせるだろう。
思想的に偏っていると感じる人も多い
保守的な歴史観に基づいており、リベラルな立場の読者には受け入れがたく感じられる可能性がある。「中立性」を期待する読者は、読解に注意が必要である。
全体に情緒的で感情に訴える構成
論理というより情熱に訴える記述が多く、冷静な分析を求める層には違和感があるかもしれない。「感情的なナショナリズム」に見えてしまう危険性もある。
そこらへんは好みだろうけど、気にならないヤツは気にならないだろうな。

まとめ
こんな人におすすめ!
- 戦後教育に疑問を持っている人
- 歴史を思想として捉え直したい人
- 自国に誇りを持ちたいと願う人
『国民の歴史』は戦後日本においてタブー視されてきた“日本の肯定的側面”に光を当て、歴史観を再構築しようとする思想的挑戦の書である。
学術的な厳密さよりも、思想的覚醒を促す構成が特徴であり、読者自身に「何を信じるか」の判断を委ねている。たとえ全ての意見に同意できなくとも、日本人が自らの過去と向き合うための出発点として、大きな意義を持つ。
歴史を“他人事”ではなく“自分事”として考えたい者にとって、本書は格好の導入となるだろう。

忘れさられた歴史を心に宿すのじゃ!